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読んだら博めたり(読博)何かに毒を吐いたり(毒吐)する独白

『リバタリアニズム読本』森村進(編著)

 

リバタリアニズム読本

リバタリアニズム読本

 

 あまり思想の本は読みませんが、キーワードとして覚えておかなければいけないものなので、総論的なものを探していて手にしました。

いまだに、「リバタニアン」と書いてしまいます。

「リバアリアニズム」とは、誤解を恐れずにいえば「個人の自由を最大限に尊重する」という思想です。

国家観としては、「福祉国家」と対置されることが多いです。

「大きな政府」というのは、個人の自由に著しく干渉し、税金という形で経済活動の成果を収奪し、それを再配分しようとする目論見でして、「リバタリアン」からすれば認められるものではない、と。

ただ、現在の秩序構造から簡単に脱却することが不可能であることは、(おそらく)現代の「リバタリアン」であれば了解しているところであり、必要な変化は徐々に行われていくことなのでしょう(実際にそれは、少しずつ始められています)。

本書は、29のキーワードで「リバタリアン」の思想を解説しており、その全てを理解できたわけではありませんが、わかりやすいものなので、臆せず読んでいただいてもいいかと。

国家の成り立ちというものは、人が生存の確率をあげるために集団で活動し、その分だけ自由を放棄するところに始まっている、と考えることができます。

そして、今もこれからも、国家の形がこのままで止まっている、と考える理由はどこにも見当たりません。

将来的に、無政府主義あるいは無政府資本主義というものが成り立つ可能性はゼロではないでしょう。

SFなどでは、巨大な複合企業体(コングロマリット)が世界を支配している、という図式がよくあらわれます。

これは、無政府資本主義の一種だと考えられます。

そういう場合、大抵の世の中はディストピア的に描かれているものですが、果たしてそうなのかという疑問も浮かびます。

支配者が異なる、というだけで、君主制や民主共和制との差異が見えてきません。

つまり、複合企業体による世界支配というのは、形を変えた君主制と奴隷制の表現でしかない、ともいえます。

決して新しい世界観ではないわけです。

その点まで踏み込んで書かれたSFがあれば、ぜひ読んでみたいところです。

いや、たくさんあるんでしょうが、ポピュラーじゃないのかな……。

あ、ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』が、「リバタリアニズム」的な作品だと紹介されているので、読んでみようと思います。

 

私自身は、過剰な福祉国家というのは、少なくとも日本には適さないと思っています。

一方で、日本は天皇制の元での水平的思考、が限界だとも思いますので、その超克がなされるかどうかで、「リバタリアニズム」に近づくかどうかが決まるのではないか、と。

個人には愚行権があれば、自死に関する権利もあるでしょう。

自死に関しては、完全な孤立以外には、行使するのは難しいのではないかと思っています。

国家のシステムの中にある以上は、それは許容しえないので、そうすると無政府主義を希求することになるのか。

うーむ。

あ、安楽死や延命治療を望まない、というのはありだと思います。

ただ、本人の同意が得られる状態でないと、という前提ですが。

思いが様々なのはともかく、医療の側から安楽死を提案する、というのは納得できません。

たとえ不可能であっても、命を助ける、ということに全力を尽くしていただかなければ、医療への信頼は失われるのではないでしょうか。

 

 

「さて、個人の自由な経済活動を尊重すれば、当然貧富の差、すなわち経済的不平等が生じる。実質的平等の実現をめざす平等主義者はこれを悪だと考えて是正しようとする。しかし、経済的不平等はそれ自体悪いことなのだろうか? 次の二つの社会について考えてみよう。社会Aでは、一握りの億万長者と大勢の庶民がおり、両者の生活レベルの格差は非常に大きいが、庶民の生活レベルも悪くない。一方、社会Bでは、すべての人々が食うや食わずの生活を送っている。もし経済的不平等それ自体が悪だとすれば、社会Bの方が望ましいということになる。つまり、一部の金持ちが豪奢な生活を送る社会ではなく、人々が等しく貧しい生活を送り共倒れになる社会の方がよいというのである。おそらく平等主義者は、そんなことを主張していないと反論するだろう。しかし、社会Bの方が望ましくないと主張したいのならば、平等主義者はもはや経済的不平等を重視していないことを認めなければならない。平等主義者が憂慮しているのは、社会Aの相対的貧困ではなくて、実は社会Bの絶対的貧困なのである。」(P54)