べにーのDoc Hack

読んだら博めたり(読博)何かに毒を吐いたり(毒吐)する独白

『バンヴァードの阿房宮 世界を変えなかった十三人』ポール・コリンズ

 

バンヴァードの阿房宮: 世界を変えなかった十三人

バンヴァードの阿房宮: 世界を変えなかった十三人

 

 偽書好き、偽史好きのみなさんなら、手にとって損はない本。

といっても、登場する人々は、一部を除けば自分の発見や発明を正しく画期的だと信じていましたし、実際に大きく世界を変えることはなくとも、少しだけ世界を変えたことは間違いがない人々なのです。

それがまた悲喜こもごも、面白い。

表題のバンヴァード氏は、映画が大衆的な人気を得る以前、「パノラマ」でミシシッピ河を描いて時の人となった人物です。

江戸川乱歩に『パノラマ島奇譚』という長編がありますが、あれは浅草にあったパノラマ館から着想を得たもののようです(もう一つの着想は、三重県にある人工島であるミキモト真珠島です……あ、あと谷崎潤一郎の「金色の死」か)。

CGでなんでも再現できるようになった今こそ、「パノラマ」のノスタルジーには価値があるのではないかと思います。

他の登場人物は、シェイクスピアの贋作者として今では超有名人なウィリアム・ヘンリー・アイアランド、地球空洞説を信じたシムズ、N線という新たな光を見たルネ・ブロンロ、音楽言語のシュドル、アメリカでもっとも流通するブドウの栽培に成功した(のにもかかわらず、同業者たちに接ぎ木を買いあさられたために莫大な権利を喪失した)イーフレイム・ウェールズ・ブル、世界でもっとも有名な(偽)台湾人サルマナザール、空圧式地下鉄網を夢想したビーチ、19世紀イギリスでもっとも売れた詩人でありながら忘れさられたタッパー、ロミオを演じ続けた植民地出身の大富豪コーツ、もっともヘルシーな青い光に魅了されたブレゾントン、シェイクスピアの正体はフランシス・ベーコンだったと信じてその墓を暴こうとした女流作家ディーリア・ベーコン、月に生命体を見出したトマス・ディック。

この、綺羅星のごとき敗者たちの物語(もちろんノンフィクションです)が胸を打つのは、我々が羨む成功者と異なり、彼らが何らかの時期を逸し、常軌を逸したがために成功者とはなり得なかったという点、日本語で言うところの「判官贔屓」でしょうか。

テレビ朝日でやっている『しくじり先生』が抜群に面白いのも、同じような理由でしょう。

成功者の成功譚に飽食気味な視聴者は、「成功者から失敗者に転落した、その失敗を自ら語らせる」ところに、「判官贔屓」と奇妙なカタルシス、そして同情と共感が生まれるのです。

 

 

ああ、同じ人間なんだな、と。

 

 

金もなくなり、友達も去り、それでも我が道を突き進むのかどうか。

この本を読まれると、何が幸せなのか、考えさせられます。

 

 

「次世代のグーテンベルクとして称揚されたこの記事が出てからわずかに週間あまりのこと、シュドルは、新たな革新的アイデアを人々の前に披露した。様々な人工言語の創出者の誰ひとりとして、いまだかつて試みたことのないものーー聾唖者と視覚障害者のコミュニケーションである。二月二十二日の公演で、シュドルは目をハンカチで覆い、生徒のひとりに、翻訳すべきフレーズを無音で伝えるようにと言った。生徒が目隠しした師に歩み寄り、その手に指を走らせると、シュドルの口から、最初に提示されたフレーズが正確に発せられた。聴衆はみな信じられないという表情で、そのさまを見つめていた。

シュドルが行なったのは、音階の七つの音を、手の一定の位置に移すことだった。

相手の手を軽くたたくだけで、目の見えない人間が耳の聞こえない人間とコミュニケーションできる。障害者は基本的に施設に閉じ込め、朽ち果てていくにまかせていた時代にあって、このアイデアは信じがたいほどに先進的なものだった。そして、ステージ上で進行していたのは、不思議な、そして不思議なまでに心打つ光景だった。ひとりの年配の男性と少年が手をたたき合い、沈黙のうちに熱のこもった会話を交わしていたのだ。」(p161)

 

現代では、触手話指点字というものが発明されています。

シュドルの人工言語(音楽言語)は美しく、画期的ではありましたが、バベルの塔以来の原則、言語は言語でしかない、という壁を越えられるものではありませんでした。

つまり、どんな言語であろうとも、身につけなければ使えないのです。