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べにーのDoc Hack

読んだら博めたり(読博)何かに毒を吐いたり(毒吐)する独白

『猫の舌に釘をうて』都筑道夫

読書

 

猫の舌に釘をうて (光文社文庫)

猫の舌に釘をうて (光文社文庫)

 

 『なめくじに聞いてみろ』を読んでしまったので、その流れでどうしても読みたくなってネットで古本購入。

表題の「猫の舌に釘をうて」というのは、「被害者で探偵で犯人」というミステリ。

およそミステリ書き(及び読者)であれば誰もが、一度はやってみたくなる「探偵役が犯人」という趣向。

そこに、さらに「探偵役が犯人で被害者」、となると、常人にはSFなんかのパターンしか思いつかないものですが(私もその類です)。

都筑道夫氏ともなると、どうにかこうにか成立させてしまう、というこの恐ろしい技巧。

趣向が趣向ですので、あまりいろいろ書くともろにネタバレしますのでこのあたりにしますが、なるほどこういうことも可能なのか、と本格読みのくせに今更感心しました。

これが果たして小説として面白いのかどうかはわかりませんが。

もっと凄まじい破壊力のあるものを想像していましたが、そうではなかったのがちょっと残念でした(とはいえ、十分驚かされたわけですが)。

他に収録されている短編は、まだ赤線青線のあったころの東京が描かれていたり、日記を絡めた異常犯罪風なもの(ある人のあれっぽい……としか書けないのがまた)があったり、手紙だけで進行するものがあったり、いろいろと転倒(ある意味で、鮎川哲也氏っぽい……というと誤解を招きますな)した怪作があったり、とまぁなんというのかバラエティに富んでいながら、そうかあの手もこの手も都筑道夫氏がやってしまっているんだなと思わせる切れ味で、「推理小説は再生産されるだけのもの」と揶揄されるジャンルなだけはあります。

このあたり、およそ伝統芸というのはそういったものなので、私はあまり忌避感を覚えないのですが、さりとて「新しいものは、新しいだけで、常に正しい」という永野護的価値観もよく理解できますので……受け手としては常に新鮮なんですよね、ただの受け手ですから。

作り手は大変だろうなぁと思います。

小説というのは(漫画もですが)、「演じることのできない」ものです。

演じ手が必要ない、とでもいいましょうか。

ですから、落語や演劇、音楽(クラシックかな)のように、残されたものをいかに解釈して演じるか(演奏するか)、というところにその価値観を置くわけにはいきません(唯一、それに近いとすると、それは翻訳小説でしょう)。

消費されるスピードが尋常じゃなく早い。

作品自体は「古典」になっても、それを後から「演じることはできない」のであれば、生み出されるものは新作しかない。

人間のアイデアは無限ですが、誰もが無限のアイデアを湧出できるわけではない。

ミステリというジャンルによらず、です(ときどき、変態が登場して、斬新なものを生み出すのですが)。

というわけで、あとは既存のアイデアを煮たり焼いたりしながら、「新しい」という衣を着せるくらいのことしかできない。

私なんかは、それが落語や演劇のいうところの「演じる」ことに通じるのではないか、と思っています。

 

 

 

ま、面白ければいいんですが。

 

 

「寝てるあいだに考えたんだよ、落語ってのはなんだろうって。伝統芸術でも、周囲の条件が変わってくれば、変質を迫られる。でも、あまり変質してしまったら、落語とはいえなくなるかも知れない。その一線を見きわめれば、それが二十世紀後半における落語の存在価値といえる、と思ったんだ。つまり、ほかのものでは間にあわない、落語でなければ味わえないものは、なにかってわけだ」

「なるほど、純粋落語ってことか」

「ところが、結論はじつに単純でね。落語ってのはけっきょく、ひとりで演ずるストーリィを持った笑いの話術、ということになるんじゃないかな。この定義でいちばん重要なのは、笑いだよ。ほかの話芸でも、講談や人情噺が、大正いらい衰退したのは、ほかのもので間にあうから、もっと現代人にアピールする同質のものが出たからなんだ。けれど、ストーリィのある笑いってのは、落語だけだよ。この特殊性があるかぎり、落語は過去のものにならない。となると、その笑いの質が問題になってくる」(「小説・大喜利」p459)

 

 

上の引用の、どこかに何かを代入すると、ひょっとするとミステリのことになるのかもしれないです。