雑学新書で古代史をさらりと。
著者は、
という割とセンセーショナルな本を書いておられます(既読)。
そもそも地名の由来というのは、「地形」「地理的条件」を第一、次にくるのが「出来事(神話含む)」、という感じでしょうか。
人名を由来とする場合もあると思いますが、人間は自分自身という個体に名前をつけるよりも、やはり自分を取り巻く世界を認識するために名前をつけることが先にくると想います。
ですので、人名由来の地名は、結構新しいと考えられるのではないでしょうか。
かたや「地形」「地理的条件」に由来を持っていても、「地形」や「地理的条件」は変化することがありますし、「地形」「地理的条件」を指す名称も変遷し兼ねません。
地名の由来を推察する、というのはなかなか難しいでしょう。
とはいえ、日本には、8世紀成立の『古事記』『日本書紀』があり、あるいは『風土記』があり、その中に出てくる地名が現在も用いられている場合があるので(後世にあえて名付けられた場合もありますが)、それを照らし合わせることで、いろいろと発見もあるでしょう。
『古事記』『日本書紀』の伝承自体が、実際には成立より数世紀前からのもの、ということもあり得ますので、より古い地名が見え隠れしたりします。
この辺り、言語的な変遷がそれほど大きくない日本だからこその面白さがあるのかもしれないです(他の国だと、侵略したりされたりで、言語がいろいろと混じり合ったりしますから、調べるのが面倒くさい、というだけですが)。
さて、古代史です。
目次をざっと見てみますと、
「第1章 地名で蘇る神話からの建国の時代
三内丸山遺跡の「大きい・長い・多い」は本当か
どうして日本を「秋津島」と呼ぶようになったのか
幻の「神武東征伝説」と日向の地名の謎
(略)
第2章 国家統一と邪馬台国の謎を地名に探る
地名に残る日本武尊の足跡
九州の地名に残る神功皇后伝説
大阪は、京都よりも古く由緒ある都だった
倭王武と埼玉県稲荷山古墳のゆかり
(略)
飛鳥の地名の由来と蘇我入鹿が暗殺された本当の理由
藤原氏のルーツは大和か鹿嶋か
(略)
第4章 古代中国と日本の関係がわかる地名
中国の古代史は、日本人自身の歴史でもある
「岐阜」のルーツは陜西省の黄土高原にあり
古代中国人が、日本人の先祖は呉の人だと思ったのはなぜ?
(略)
第5章 古代朝鮮は古代日本に何をもたらしたのか
楽浪郡は中国の「植民地」ではなく、「内地」だった
新羅の首都・慶州の王城は日本人が創った
(略)」
一部を乗せるとこんな感じで、面白いテーマで、簡潔に書かれているものがほとんどです(新書ですから)。
私自身は、著者のような確固たる推論(推論が確固としているのか?)も、それを支える知識もありませんので、逐一妄想して楽しんでいるだけです。
文献を虚心に当たれば見えてくるものがあり、それを現代風に「わかりやすく」書くこともまたできる、という点で非常に優れていると思います。
「また、古代の地名の由来を朝鮮語に求める人もいますが、古代の朝鮮半島で現在の朝鮮語につながるような言葉が話されていたのかどうかは不明です。少なくとも、百済・高句麗は、現在の朝鮮語と同系統の言葉ではなかったようです。また、現代の朝鮮語に近い地名があっても、それが逆に日本から朝鮮に伝わった可能性もあり、どちらなのかはなんともいえません。」(p15)
未だにそういったことを言っている人がいますわね。
可能性がないではないのですが、証明しきれませんので、私の妄想とどっこいどっこいの話です。
「神道の世界でどんな神様が人気があるかは、古代から中世を通じての評価の結果です。キリスト教の聖人もそうですが、彼らが生きた時代における重要性と、その後、手厚く信仰されているかどうかはあまり関係がありません。現代の宗教的価値に合わせて、歴史の中での評価をするわけにはいかないのです。」(p26)
人気があると、さも重要だったような気がしてしまいます……それが物語の恐ろしさ。
脇役が妙に人気を集めることがありますからね。
「記紀において、天皇家が日向に再登場するのは、景行天皇と日本武尊のくだりです。しかし、「先祖の墓に参る」ともしていませんし、その後も旧跡を顕彰するといったこともありませんでした。」(p28)
祖先崇拝がどの程度もてはやされていたのか、がわからないのでなんとも言えませんが、確かに奇妙な話なんですよね。
「神武天皇」が本当に南九州の有力者なら、本拠地とのつながりが維持されていてもいいですし、そもそもなんで大和に来たのか。
他にも天神の子孫がいていい感じのところらしいぜ、という噂を聞きつけて旅立ったのですが、これは後付けだとして、移住する理由としては切迫さがないですよね。
だから、著者の言わんとすること(「神武東征」は大軍団を率いての移動ではなかった)も分かる気がします。
「注目すべきは、景行天皇が『魏志倭人伝』に登場する地域には、いっさい足を踏み入れていない点です。この地域は、日本武尊の子である仲哀天皇の時代になって支配下に入り、国内の統一が完成します。」(p60)
『日本書紀』では、「景行天皇」が南九州まで出張っていくのですが、確かに北部九州の記事はないんですよね。
そもそも「景行天皇」の業績をどこまで信頼するのか、という話もありますが、ある程度事実だとして、日本統一に向けて動いていたのであれば、北部九州は無視できない存在のはずなんですよね(半島・大陸への足かがり的にも)。
北にはいかず、南にはいく。
航路の問題もあるのか。
うーむ。
「いずれにしろ、記紀では、継体天皇の英雄らしく描いていません。これも、私が、継体天皇は越前から来た「新王朝」だという説を否定する理由で、もし新王朝の創始者ならそれにふさわしいヒーローとして書かれなければおかしいのです。」(p80)
『日本書紀」も『古事記』も、陰謀論に巻き込まれて、様々な解釈をしている人がいますからなぁ……私もその一人です。
英雄を「英雄ではなかった」と証明することと、英雄ではない人を「英雄だった」と証明することと、どちらが難しいのでしょうね。
まあ、文献に頼る以上は、どっちも証明しきれないのですが。
「『日本書紀』は、天智天皇こそ皇室の中興の祖だという意識で書かれています。もし、天智天皇ではなく天武天皇こそキーパーソンという位置付けにしたいなら、『日本書紀』の編纂を命じた天武天皇らが、そういう書き方をする必要はないのです。」(p107)
これも、真実を隠すためのなにかの陰謀なのです(?)。
「そもそも「藤原」というのは、鎌足の出身地の地名に過ぎません。奈良時代に藤原仲麻呂(恵美押勝)が編纂した藤原氏の正史である『藤氏家伝』に、大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)の生まれとしています。」(p109)
中臣を捨てて藤原になった、というのはなかなか面白いんですよね。
『続日本紀』を読むと、とにかく「姓を変えてくれ」という訴えが多くて、何をどうしたいのかがよくわからないです(改めて、先祖の事績を確認したのか、何か捏造したいのか)。
理由はなんなんでしょう……きっと研究している人がいると思います。
「ところで、日本では、「冊封関係」という概念で東洋の外交関係が説明できるとする学説が主流ですが、中国や韓国の歴史教科書では、この言葉はほとんど使われていません。中国は伝統的に外国との交流はすべて朝貢と見なしていました。とはいっても、古代における中国とほかの国の関係は、それほど窮屈な上下関係にもとづくものではありませんでした。
ところが、日本、百済、高句麗と対立して窮地に陥った新羅が、自らの生き残りのために、唐の暦を使い、礼装も同じくし、人名まで中国風にして、国王も中国から任命してもらう形をとりはじめました。これが、いわゆる「冊封関係」です。それ以来、新羅だけでなく高麗や李氏朝鮮も、中国に対する従属国的な立場に置かれるようになりました。」(p221)
ま、そもそも内戦どころか異民族(と自分たちが呼ぶ人々)に侵略されて王朝を乗っ取られているような、いろんな意味でヤバイ国とは、文化的な交流はともかく、根底では仮想敵国にしておくのが安全だ、と思うのは、古代も近代もそして現代も同じってことですな。
縁切った菅原道真と、縁切ろうとした福沢諭吉は、多分聖徳太子が発見したであろうこの原則を思い出しただけなのかもしれないです。
とはいえ、裏でつながっている人たちがいるというのもまた事実なので……さすが詭道の国、という危機感は持っておかないといけないですね。
でまあ、書かれている通り、日本は大陸の国と冊封関係なんぞではありません。
もしそうなら、元が売ってきた喧嘩は買わないし、秀吉も明に喧嘩売ったるわとも思わないでしょう(足利義満は微妙ですが、金回りを考えたのかもしれないですな)。
天皇が即位するたびに、大陸に報告に行きました?
それだけでどういう関係だったかわかるでしょう。
向こうは対等だと思っていない、そりゃ当然です。
こっちは「でかいしやばいけど、いつでもやったるわ」くらいの感じだったのでしょう(それが分相応な考えだったかはともかく)。
地政学上の問題もありましたけどね……でもね、大陸の周辺民族は、中原にちょっかい出しては侵略してるわけです。
女真なんて満州でしょ、元をたどれば高句麗と同じなわけで(規模はともかく)、そこから出て清をぶち立てることができたってことは、半島を支配した新羅だって、なにかの間違いでそんなことができたかもしれないわけですわ。
それを地政学だけの問題にしてはいかんような気がします。