べにーのDoc Hack

読んだら博めたり(読博)何かに毒を吐いたり(毒吐)する独白

『古寺に秘められた日本史の謎』新谷尚紀

 

古寺に秘められた日本史の謎 (歴史新書)

古寺に秘められた日本史の謎 (歴史新書)

 

 雑学新書でざっくり歴史を知ろう系。

この方の著書も何冊か読んでいる気がします。

とにかく仏教のことを系統だって学ぼうと思うとしんどいです。

インドの原始仏教から始めたら何年かかるんだかわかりませんし、伝播の過程で魔改造が施されては、「それじゃだめだ」と揺り戻し。

同じ仏教でも、チベット、ネパールと日本の差といったらあなた。

アジャンタの石窟寺院と、日本の伽藍が、同じ宗教のものですと?

ケルン大聖堂とブラジリアの聖堂くらい違いますがな(適切な例えか?)。

ですので、こういった雑学新書で、とりあえず日本の仏教だけでも押さえておきたい……のにもかかわらず、結局は大陸やらインドやらまで思いを馳せなければならないのですこれが。

 

「「寺院」の字義について触れておくと、まず「寺」という漢字は、中国では本来、役所や官舎を意味した。これが仏教施設を指すようになったのは、中国に仏教を伝えたインド人僧が、「鴻臚寺」と呼ばれる外国使節接待用の役所に宿泊したことに由来する。また、「院」は回廊をめぐらせた建物のことで、中国の寺が多く回廊をそなえていたことから、寺が寺院とも称されるようになった。」(p16)

 

こんな基本的なことも知りませぬ〜。

 

「しかし、『日本書紀』に描かれる蘇我氏物部氏の崇仏論争については、物部氏は必ずしも排仏派ではなく(渋川廃寺[大阪府八尾市]は物部氏の氏寺だったといわれている)、両者の政治的抗争が宗教的対立に擬装・誇張されて描写されたものとする見方もある。」(p38)

 

物部さんたち的には、天皇仏教を崇めることによって、自分たちの権能が脅かされることに危機感を抱いたわけで、決して「蕃神」を崇めること全てを否定したわけではない、と思います。

 

「この時代は、神社の多くはまだ常設の社殿をもたず、巨岩や樹木の神霊を依り代とする、原始神道的な祭祀が主流だったと考えらえる。神社が常設の社殿を造営することが本格化するのは、天武天皇十年(六八一)に全国の神社の「修理」(「修繕」とともに「新造」の意もある)を命じる詔が出されてからだが、この詔は、三宝興隆の詔後、全国各地に仏教寺院の建立が急速に広まったことを意識したものなのだろう。」(p41)

 

天武天皇自体は、どちらかといえば大陸かぶれだったので、神道道教(に限らない大陸風信仰)的に解釈しようと思っていた気配があります。

 

「ところで、天台座主は朝廷が任命権をもっていたが、円仁・円珍の後には、両者の弟子が座主の選出をめぐって争うようになり、やがて円仁派と円珍派が激しく対立し、抗争が繰り返されることとなった。そして正暦四年(九九三)には、激しい衝突が起きて堂舎が破壊焼却され、円珍派は比叡山を降りて園城寺に移った。これを機に、天台宗は、山上の延暦寺を拠点とする円仁系の山門派と、山下の園城寺を拠点とする円珍系の寺門派に分裂することになった。」(p85)

 

でかくなれば分裂吸収合併が当たり前。

 

「今では空海入定の聖地として揺るぎない位置を仏教界に占めている高野山だが、じつは十世紀前半までには金剛峯寺は京都東寺の末寺となって、その支配下に置かれた(東寺長者が金剛峯寺座主を兼務するというのが慣例となった)。また災害もあって山内は荒廃し、一〇〇一〜一六年頃までは、山内に常住する僧はまったくいなかったともいわれる(五来重高野聖』)。」(p108)

 

じゃあ裏高野はどうなっていたんだ……(と嘆く『孔雀王』好き)。

 

「つまりこれ以後、寛永寺の山主は、輪王寺宮という宮家の当主である法親王が代々勤め、しかも彼は天台(延暦寺)座主と日光山門主を兼帯することにもなったのである。一人で三山を統轄することになった輪王寺宮の権威は絶大なものとなり、天台宗のみならず宗教界全体に君臨する存在となった。また、その格式は尾張紀伊・水戸の徳川御三家よりも上、将軍とは対等とされ、その威光は十三代十二人の法親王によって幕末まで継承されたのである(菅原信海他編『日光』)。」(p175)

 

そして、いざとなったら輪王寺宮を担ぎ出して、京都とことを構える準備もできていた、と。

朝廷が力を取り戻したときのことを考えての天海の布石、とも言われていますが、さてどうなのでしょうね。

 

神社仏閣初心者にはオススメですよ〜(結構専門的な内容ではあります)。