べにーのDoc Hack

読んだら博めたり(読博)何かに毒を吐いたり(毒吐)する独白

『悪霊にさいなまれる世界』カール・セーガン

 

悪霊にさいなまれる世界〈上〉―「知の闇を照らす灯」としての科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

悪霊にさいなまれる世界〈上〉―「知の闇を照らす灯」としての科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 
悪霊にさいなまれる世界〈下〉―「知の闇を照らす灯」としての科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

悪霊にさいなまれる世界〈下〉―「知の闇を照らす灯」としての科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

著者のカール・セーガン氏は、小説『コンタクト』(映画化もされましたね)で著名なかただそうで。
いえ、よく知らなかったもので。
本書は意味深なタイトルですが、ニセ科学などを信じやすい現代に対して警鐘を鳴らす目的で書かれています。
ニセ科学というのは、定義が難しいですが、疑似科学とかトンデモ説とか、まあそういったものです。
これらを「悪霊」と称して、人々がそういったものに流れてしまいがちなことを憂いている、と。

 


実際、大好物ですけれどもね(信じているかどうか、はまた別で)。

 


上下巻の長い読み物ですが、科学の知識はそれほど必要ではありません(セーガン氏がわかりやすく解説してくれます)。
とにかく、UFO、宇宙人、超常現象、超心理学、カルト宗教、陰謀論、現代の魔女狩り……といったものをばっさばっさと快刀乱麻を断つごとく切り捨てていきます。
爽快ですらありますね。
で、自分がどちらかといえば科学的思考を手放したがる人間なのだな、ということが自覚できる、と(自覚したところで、それを受容して、有用しなければ意味はありませんが)。

 

「市民が監視をおこたり、科学教育の手がゆるめられれば、そのたびに新たなニセ科学が吹き亜dしてくる。こうした状況を、レオン・トロツキーヒトラー台頭前夜のドイツを舞台にこう描き出した(だが、一九三三年のソ連にも当てはまるのではないだろうか)。

 

農村の家々ばかりか年の摩天楼においてさえ、そこには二十世紀といっしょに十三世紀が息づいている。一億人が電気を使いながら、今なお神のお告げや悪魔祓いといった魔力を信じているのだ。映画スターは霊媒師を訪ね、飛行機操縦士は、人間の才知が生んだ奇跡のメカニズムを操りながら、一方ではセーターに魔除けのバッジをつけている。人々の心の中には、暗黒、無知、野蛮がなんと無尽蔵に宿されていることか!」(上/p49)

 

ニセ科学は、誤りを含んだ科学とはまったく別のものである。それどころか、科学には誤りがつきものなのだ。その誤りを一つずつ取り除き、乗り越えてゆくのが科学なのである。誤った結論は毎度のように引き出されるけれども、それはあくまでも暫定的な結論でしかない。科学における仮説は、必ず反証可能なようにできている。次々と打ち立てられる新たな仮説は、実験と観察によって検証されることになるのだ。科学は、さらなる知識を得るために、手探りしつつよろめきながらも進んでいく。もちろん、自分が出した仮説が反証されれば嬉しくはないのだけれども、反証が挙がることこそは、科学的精神の真骨頂なのである。」(上/p57)

 

「科学は単なる知識の寄せ集めではなく、一つの思考様式だからだ。」(上/p64)

 

「科学者は誰しも、自分のアイディアや発見に深い愛情を感じているものだ。それでも科学者は批評者に向かって、「ちょっと待ってくれ。これは本当にいいアイディアなのだ。私はこのアイディアをとても気に入っているのだ。ああたに迷惑はかけない。頼むから放っておいてくれ」と言ったりはしない。そう言う代わりに、科学者はつらいけれども公正なルールに従う。そのルールとは、うまくいかないアイディアは捨てるということだ。うまくいかないアイディアに頭を使ってもしかたがない。そんな暇があったら、新たなアイディアを生み出し、データをよりよく説明できるようにすべきなのだ。」(上/p77)

 

「それにしても、物理学や工学の分野ではあんなに進んでいる異星人が(なにしろ広大な宇宙の間を行き来し、まるで幽霊のように壁をすりぬけられるというのだ)、いったいどうして生物学の分野ではこんなにも遅れているのだろうか。秘密裏にことを進めようとしているのなら、なぜ誘拐した者の記憶をきれいに消しておかないのだろう。それとも記憶の抹消は、彼らにとってもむずかしいことなのだろうか。どうして彼らの検査器具はあんなに大きくて、しかもそこらの病院で見かける器具とやけに似て居るのだろう。どうして性交などというめんどうなことを何度もやるのだろうか。卵子精子の細胞をちょっと失敬して、遺伝コードを解明し、好みにあう遺伝子を好きなだけコピーすればよいではないか。まだ宇宙を高速で飛び回ったり壁をすりぬけたりなどできない地球人だって、細胞のクローンぐらいなら作れるのだ。」(上/p130)

 

「人類の歴史には、これと同じような例がたくさんあるーー出所のあやしげな文書が突然見つかり、発見者の立場を強力に支持するような重要な情報がもたらされるのだ。しかし、入念に、ときには勇敢に調べてみると、その文書は偽作であることが判明する。」(上/p177)

 

「ひょっとしたら、異星人がもっている知識は、異星人がいることを報告した人と同じレベルなのだろうか?」(上/p192)

 

「私は一九六〇年代の初めごろに、UFO話はおおむね宗教的願望を満たすために作られたものだろうと言ったことがある。」(上/p244)

 

ジャンヌ・ダルクもジロラモ・サヴォナローラも、幻視を見たために火刑に処されたのである。」(上/p269)

 

「FBIは、悪魔崇拝による虐待について、きわめて懐疑的な見解を示す報告書を作成した(ケネス・V・ラニング『「儀式」による児童虐待の訴えに関する調査官の手引き』 一九九二年一月)。しかし、悪魔教の存在を熱心に唱える人たちは、おおむねこれを黙殺した。」(上/p299)

 

「そのうえコマーシャルは、まずいことには口をつぐむ。」(上/p377)

 

トマス・ジェファーソンジョージ・ワシントンも奴隷を所有していた。アルベルト・アインシュタインもモハンダス(マハトマ)・ガンジーも、夫として、遅々として完璧ではなかった。この調子でリストはいくらでも続けられるだろう。われわれはみな、欠点を抱えた時代の子なのだ。未来の基準でわれわれを裁くのは、果たして公平なことだろうか?」(下/p84)

 

「科学が、あれはできない、これもだめと枠をはめてくるのは、実にいまいましいことだ。そのうえ科学は、原理的にさえできないことがあると言う。いったい、光よりも速くは動けないなんて誰が言ったんだ?」(下/p103)

 

「くりかえすが、こんな嘘なら社会のためになるとか、こういう事実は隠した方がいいなどと判断を下せるほど、われわえrは賢くはないのだーーましてや、その長期的な影響など知るべくもないのである。」(下/p120)

 

「とはいえ、どうしても否定できないことが一つある。それは、中世の迷信から近代科学へと移行するにあたって中心的役割を果たした人たちが、唯一絶対神という観念に深い影響を受けていたということだ。」(下/p175)

 

「単純素朴な質問もあれば、退屈な質問もあるし、要領を得ない質問もあれば、思いつきまかせの質問もあるだろう。しかしどんな質問でも、それは世界を理解したいという心の叫びなのだ。くだらない質問などというものはないのである。」(下/p194)

 

「自分と異なる意見を聞き、中身のある議論をする機会があれば、人は自分の考えを変えることができる。」(下/p389)

 

「教育水準が下がり、知的能力が弱まって、中身のある討論が求められず、世間が懐疑精神の価値を認めなくなれば、自由は少しずつ削り取られ、権利が侵されることにもなりかねない。」(下/p394)


世界的に、妙な方向に向かっているのですが、時代の反動みたいなものかもしれないので仕方ないです。
「ポスト真実」とかいうものが、ネットに乗っかって拡散し、政治家にまで影響を与えるような時代なのです。
本書に書かれている「トンデモ話の見分け方」を意識していれば、そういったものに踊らされることも少ないのでしょうけれども。
未だ大部分の人間は科学的思考に到達できていませんし、全ての人間がそうなるわけでもありません。
科学的なるものによる格差も生じる時代がくるかもしれないです。

 

ところで、自説を捨てられず身を滅ぼしていった科学者という人たちは結構いたりしますが、そういう人の中には本気でそう思っていた人たちが幾分か混じっているのだと思います。
その人だけに見える、聞こえるものがあるのです(それを幻視、というならそうなのでしょうが、脳がそのように機能してしまう可能性があります)。
残念なことに、その人にだけ、なので、普遍化、一般化ができません。
しかし、科学者とはいえ、自分が感じる世界が、他人の感じる世界と異なっているかもしれない、という可能性に思い至るのは難しいのかもしれません。
まあ、最近は脳科学も発達してきていますし、そういったものも解消されていくのかもしれないですね。
このあたりは京極夏彦先生にお任せします(?)。
妖怪や〜い。