『神社を美少女に擬人化したゲーム「社にほへと」 リリース前に開発中止に』
(ねとらぼ、2017/9/11)
以下一部引用。
「DMM GAMESが、神社を美少女に擬人化したゲーム「社にほへと(やしろにほへと)」の開発中止を発表しました。事前登録中でしたが、今後の配信も事前登録も中止しています。
(略)
厳島神社や伏見稲荷など、歴史ある神社が美少女キャラクター「社巫娘(しゃみこ)」となって戦うというゲーム。事前登録のおみくじでレアリティによってキャラに大吉から凶に割り振られている点に神社本庁が難色を示したことも報じられ、波紋を呼んでいました。」
◯こちら===>>>
↑過去にも取り上げた、神社擬人化ゲームの開発が中止されたそうです。
こりゃ多分日◯会議が暗躍した結果で、日本の右傾化がますます進んでいる……という陰謀論はともかく、さすがにいろいろまずかったのでしょうか。
私は、「これって、社殿の付喪神を美少女で描いているだけだから、別にいいんじゃないかなぁ……」と思っていたんですが、なるほどキャラに「大吉」とか「凶」とかってのは、ちょっと引くなぁ……「大凶」は「出雲大社」、「大吉」は「伊勢神宮」とかだったらねぇ……そういう神道的な話を持ち出すともう、いろいろと説明が大変……いっそ従三位とかって位階にするとかさ……だめだなそれも……。
まあ、プレイするつもりはなかったので、ニュース自体はどっちだっていいんですが。
最近、様々な災害、事件などの風化が言われており、「忘れるな」「忘れてはいけない」といった風潮に、正直しんどさを感じます……というのは、私がそんなにたくさんのことを覚えていられないから、なのですが(個人的な理由です)。
坂本真綾(様)の歌にもありますが、「人間は、忘れる生き物」なのです(わたしゃ稗田阿礼じゃないですから……あの人、多分サヴァンですよね)。
もちろん、だから「忘れるな」「忘れてはいけない」となるんですが、この矛盾を矛盾のままにしておけるのかどうか。
頑なに、「忘れるな」を唱え続けることだけが真っ当なのかな、と思います。
で、ですね。
ひょっとすると、「神」あるいは「神的存在」というのは、昔の人が発明した「外部記憶装置」だったのではないか、とふと考えました。
長く記憶しておくために便利なものは文字、ですがそれを自在に扱うって容易ではありません。
その次には過去を想起できる記念碑的な何か、でしょうか。
でもって、災害にしろ悲劇的な何かにしろ、それに「名前」を与え、できるだけ長く語り継ごうと思うと物語が付随したほうがいいわけで。
アニミズム的な神格がその地方地方に残っている、というのは、ある事柄を長く記憶しておくため、だとすると、記憶媒体が高度化されていない時代においてはかなり有効だったのではないでしょうか。
「人間は忘れる生き物」であることを自覚し、それでも長く保存しておきたい記憶である場合、それが人災であったとしても棚上げし、神的存在に仮託することで、風化を防ごうとした。
もちろん限界はありますが。
小さな祠、神的存在、付随する物語。
これらが地域の中で保存されてきたことで、数世代に渡って何かしらの記憶が受け継がれた。
神様には、そんな側面があったのかもしれない、と思いました(宗教学的に、すでに答えが出ている話かもしれないですけれども)。
何が言いたいのかというと……なんでしょう、「忘れることを恐れるくらいなら、神様にお預けしよう」、ということなのかな。
それが日本的な合理性だったのではないかな、と……今やVRとかで残せますからねぇ……そういう意味で神様の出番はなくなってしまったのかもしれないです。
◯元記事