べにーのDoc Hack

読んだら博めたり(読博)何かに毒を吐いたり(毒吐)する独白

『錯覚の科学』C・チャブリス、D・シモンズ

 

錯覚の科学 (文春文庫)

錯覚の科学 (文春文庫)

 

 

一時、脳科学系の本をいろいろ読んでいまして(まあ、それが講じて『カンデル神経科学』なんつーありえない本を買ってしまったのですが)。

本書もその流れで買ったような記憶があります。

6つの実験が章立てで書かれていて、それぞれ、

 

・実験I えひめ丸はなぜ沈没したのか? 注意の錯覚

・実験II 捏造された「ヒラリーの戦場体験」 記憶の錯覚

・実験III 冤罪証言はこうして作られた 自信の錯覚

・実験IV リーマンショックを招いた投資家の誤算 知識の錯覚

・実験V 俗説、デマゴーグ、そして陰謀論 原因の錯覚

・実験VI 自己啓発サブリミナル効果のウソ 可能性の錯覚

 

となっています。

特に私なんかは、実験Vと実験VIに興味を惹かれるわけですが。

 

実験Iでは、他の行動経済学認知心理学の本でも扱われることの多い、「バスケットボールの試合にゴリラが迷い込んでも、多くの人は気づかない」が紹介されています。

「非注意による盲目状態」、何かに注視しているとき、見えているものを認識できないということが人間にはよくあるそうです(私はゴリラの実験を受けたことがないので何とも)。

そうでもしないと説明できないことが世の中にはあるのですね。

えひめ丸沈没事故でも、潜水艦の艦長はえひめ丸を「見ていながら、見えていなかった」のではないか、と思われる、と。

他にも、バイクが事故に遭いやすい理由、運転中に携帯電話を操作するリスク、著名なバイオリニストがワシントンの地下鉄の駅で演奏しても気づかれない理由、多くのことが注意力に関する錯覚が原因ではないか、ということです(完全に再現できないので、断言はされていません)。

 

「実際の話、マルチタスクに関する実験では、性別に関係なく、誰もうまくできないというのが結論である。原則として、マルチタスクよりも一度に一つずつ仕事をするほうが、はるかに効率がいいのだ。」(p58)

 

注意力が散漫になりやすいマルチタスクというのは、現代社会では求められがちですが、本当のマルチタスクをこなせる人は非常に限られており(存在しない可能性もある)、多くの人が「複数のタスク」を「自分なりの優先順位」で「順番にこなしている」だけなのです(だから、「俺はマルチタスクは苦手だなぁ」と思っても気にしない気にしない、みんなそうですから)。

 

「問題は、注意不足を証明する具体的な証拠がないこと。それが錯覚のもとである。私たちは自分自身で気づいた想定外のものは意識するが、見落としたものは意識しない。その結果、私たちが手にしているのは、自分は身の回りのできごとをちゃんと近くできているという事実だけになる。胸を叩くゴリラを見落とすなどの経験を積まないかぎり、自分がまわりの世界をどれほど見落としているか、理解するのはむずかしい(そしてたいていの人が理解したがらない)。」(p66)

 

 

実験IIは、「人の記憶は捏造される」というお話。

犯罪の事件現場を目撃した人の証言が食い違う、というのはよくあることで、ですから捜査をする側は、証言を鵜呑みにするのではなく、「これは、正しいらしい」「これは曖昧で信頼できない」といった腑分けをしなければいけないのです(証言の裏付け)。

多数のサンプルがあり、その中で多数が共通して記憶していることの確からしさはかなり高いと判断できますが、これも確からしいというだけで、現実と異なっている場合もあります。

こういうことをやりはじめると、ミステリー小説はかなり危うい立場に追いやられる……と思われるかもしれませんが、あれは小説内宇宙で起こる特殊なロジックに基づいているので、構うことはありません(リアリティを追求する警察小説なんかであれば、ぐいぐい突っ込んでもいいと思います)。

 

「十年ほど前、ダンが主人役を務めるパーティーで、ケン・ノーマンという私たちの仲間が、マサチューセッツ州ケンブリッジのレストラン、リーガル・シーフードで俳優のパトリック・スチュワート(『スター・トレック』のピカード艦長役、『X-メン』のエグゼビア教授役でとくに知られる)と隣り合わせになったときの、おもしろい話を聞かせた。ケンの話によると、パトリック・スチュワートは魅力的な若い女性と食事中で、もれ聞こえる話から察するに女性は広報担当かエージェントのようだった。スチュワートはデザートにベイクド・アラスカを頼んだーーレストランのメニューにめったに載らないデザートだったので、ケンはよく覚えていた。そして食事が終りかけたとき、もう一つの忘れがたいできごとが起きた。キッチンから二人の調理人がでてきてスチュワートのテーブルへいき、サインを頼んだのだ。スチュワートはこころよく応じた。その直後に、支配人が登場して「スター・トレック・ファンの調理係」の失礼を詫び、レストランの方針に反する行為だと言った。スチュワートは肩をすくめて受け流し、ほどなく連れの女性と一緒に店をでていった。

この話には問題が一つある。じつはスチュワートと隣り合わせになったのはケンではなく、クリスだった。」(p100)

 

……あ、長く引用したのは、私がパトリック・スチュワートが好きだからです。

「情報源記憶のミス」と呼ばれる記憶の改ざんは、記憶の出所は覚えていないのに、その内容ははっきり覚えているので、「だったらこれは自分の記憶だろう」と思ってしまうことで起きます。

脳機能に何らかの異常を生じると、思い込みが起こりやすくなりますが、そうでなくても思い込みは起こるわけです。

意識しない盗作、というものも、実際にはあり得ます……ので、編集者などは世に出る前にものすごいチェックをする……と思われがちですが、これまた作者に対する認知バイアスのおかげで、編集者がスルーしてしまうこともありますし、膨大な情報ソースすべてにあたることなんてできるかどうかわかりませんし、それを逆手にとって、非常に少数な話者しか残っていない言語で書かれた小説を日本語にしてそのまま自分のものです、としてしまうこともあるかもしれません。

オリンピックエンブレム盗用問題も、意識しない盗作だったかもしれませんね(あれの問題は、似てしまったことではなく、その後の対応なんですけれども)。

ヒラリー・クリントンバラク・オバマと競った大統領選の候補者選挙で、ありもしないボスニアでの危険な体験を語ってしまったのは、果たして記憶の改ざんを無意識で行ったのか、意識的に行ったのか、それはわからないのですが、高潔であろうと天才であろうとそういったことは起こり得るのだ、と覚えておくことは意味がありそうです(覚えておければ、ですが)。

実験IIIは、「自信に気をつけろ」というお話。

「他人が自信満々なときには、眉に唾をつけておけ」といったほうがいいかもしれません。

日本は比較的、「自信がある」ことを良し、としない風土があり、それがまたいいのか悪いのかという問題はありますが、どちらかといえば自信満々な人を「ほんまかいな」と勘ぐることが多いと思います。

が、それも状況によりけりなのを忘れないほうがいいでしょう(でなければ、催眠商法だのマルチ商法だのが未だに一定の効果をあげるわけがないわけで)。

 

「医療の世界では、自信の連鎖はかぎりなく続いていく。医師は修行の一つとして自信をもった話し方を学ぶ(もちろん、生来自信のある人が医師になる場合もあるが)。そして患者は医師を、見かけほどの権威はないとは思わず、神のごとき名刹力をもった聖職者のように扱う。その患者のへりくだりが、医師の振る舞い方に影響をあたえ、彼らの自信をさらに強める。危険なのは、自信が知識や能力を上回ったときだ。キーティングは言う。「医師に求められるのは平常心ですが、その境地にいたるには、技術力を磨くことが必要です。そして、つねに”不明”な要素がなければ、学び続けることはできません。医師という仕事には、謙虚であるべき部分が沢山あるのです」医師には、事実に耳を傾ける姿勢が欠かせない。知らないことは正直に認め、患者から学ぶ必要がある。だが、すべての医師が自信過剰を克服できるわけではない。」(p162)

 

多分、大門未知子は別です。

実験IVは、「自分はよく知っている」というのがいかに当てにならないか、というお話。

 

「専門家がこれほど判断を誤りやすいとしたら、自分が実際以上によく知っているという思い込みは、私たちにあって当然だろう。そのように思い込むとき、私たちはもう一つの日常的錯覚、すなわち知識の錯覚にとらわれているのだ。」(p184)

 

単なる知ったかぶり、というわけではなく、むしろある事柄について全てを知ることは到底不可能なのだ、という謙虚さを心のどこかに持っていよう、ということなのかな、と思います。

私も、業務上で断定的なことを言う場合がありますが、ある程度の知識と経験に基づいているとはいえ、それが全ての場合に当てはまるわけではない、と言ってしまってから思い出して訂正すると、途端に話から説得力が失われます(まるで自信がない、というのはやっぱりだめなのです)。

 

「たとえば、水洗トイレについて、実際に質問に答えてみるまでは、自分にはその仕組みがわかっていると直感的に思う。だが、本当に理解しているのは、トイレの使い方(汚物を流す方法)だけかもしれない。必要なのは目に見えない部品がどのように組みあわさって機能するかを、理解することなのだ。水洗トイレの内側をのぞき、少しばかり構造をいじくってみれば、その仕組みが理解できるかもしれない。だが、トイレを実際に調べてみるまでは、理解しているという自分の感覚は、錯覚であることが多い。トイレを使うとどんなことが起きるかを、どのようにして起きるかと取りちがえ、日常的に見知っているという感覚を、ほんものの知識と誤解してしまうのだ。」(p188)

 

車がどうやって曲がるのか、私には説明できません。

予測は、「実現しやすさ」しか表現できず、「実現するかどうか」は常に50:50、だと考えれば、人間の考える将来的な予測が、その将来においてどれほど役に立つものか……しかしながら、「何らかの裏付け」とやらのある「予測」がないことには、動かないのが人間の社会だったりするので、ある種の諦観も必要になってくるのかもしれません。

実験Vはおなじみ陰謀論、我々の脳が物語を作り出すように作られている、というお話です。

某国で、はしかのワクチンが自閉症の原因である、という極めて限定的なデータから流された情報のおかげで、はしか大流行、という笑えない状況が起こりました(はしかのワクチンが自閉症の原因である、という可能性がないわけではないのですけれども)。

 

「これらの片寄りが生じるのは、私たちの脳が、ものごとをパターンで捉え、偶然のできごとに因果関係を読み取り、話の流れの前後に原因と結果を見ようとするためなのだ。」(p235)

 

人間が言語で思考する以上逃れられない宿痾のようなものです。

また、事象に原因があることで、人間の思考は安定するものなので、どうしてもそこを追求しようとしてしまうのです。

とはいえ、ミステリー好きからすれば、それこそが「推理」というものの根幹でもあるので、困ったなと思いながら共存を試みるしかないわけです(こういったところをついてくるミステリーもありますし、何なら現実世界での詐欺もこの辺りをついてきます)。

「統計は確実なもの」というのは、その統計の信頼性によりますし、その統計をどのように公表するのかにもよります。

A国とB国の犯罪検挙率を比べてみると、A国のほうが検挙率が高いので、犯罪発生率も高いのでは、と思ってしまいがちですが、実際にはB国では警察の間で汚職が蔓延しているとしたらどうでしょうか、どちらのほうが犯罪発生率が高い、と判断できるのでしょう(表に出ない犯罪が山ほどある、という可能性)。

「ポジティブな人は、危機的な状況でも生き残る確率が高い」、という話を聞いて「そりゃそうだ」と思ってしまうと、「そもそも、危機的な状況でどれだけの人間が生き残ったのか」というデータが示されていないことになかなか気づけません。

重要なのは、危機的な状況で生き残る確率であって、ポジティブかどうかはどっちでもいいはずなのです。

ポジティブなほうが、「生き残ろうとする確率」は高い、とはいえますけれどもね。

実験VIは、特定の、衝撃的な効果を普遍化してしまうメカニズムについて(人間の脳と、それを利用するメディアと)。

モーツァルトを聴くと頭がよくなる、という例が取り上げられていますが、実際には、「何もしない、ただ座っている」という状態に比べて「モーツァルトを聴く」と知能テストの結果がよくなるらしい、というより、「何もしない、ただ座っている」状態だと知能テストの結果が悪くなるらしい、ということだったようです。

これを、「何もしない、ただ座っていると、知能テストの結果が悪くなった(らしい)」と発表せずに、「モーツァルトを聴くと知能テストの結果がよくなった」と発表する、と。

一見嘘はついていませんが、極めて限定的で再現性に疑問が残る、そもそも実験が適正かどうかも疑わしいことについて、レトリックを用いて思考を誘導している辺り、悪質です(当の科学者に、その意図はないにしても)。

「世紀の大発見」をした人物が、それを再現できず、「それでも私は発見したんだ」と嘆く、

 

バンヴァードの阿房宮: 世界を変えなかった十三人

バンヴァードの阿房宮: 世界を変えなかった十三人

 

 

↑にもそういった科学者が出てきましたけれども、その科学者は特定の条件下である光が見えたのですね、でそれを大発見だと公表したんですが、他の科学者には再現できず、インチキの烙印を押されてしまうのです。

ここでのポイントは、「その科学者にとっては見えたものが、他の人には見えなかった可能性がある」、というところです。

我々が見ているもの、というのは脳を通して見ており、結果としておおよそ同じ映像になっているわけですが、かといって全く同じではないのです。

ということは、脳神経の異常なのかなんなのかはわかりませんが、「その科学者には、特定条件下で見えるもの」があったとしても不思議ではない、ただし「その科学者にしか見えない」ということは、それが普遍的な現象なのか、その科学者の脳内にだけ起こることなのかを証明しなければならないんですね。

今では、観測機器は飛躍的な進歩を遂げていますが、同じ規格で作られた機器にさえ個性(偏り)があるのです、再現性を確認するために複数の機器を用いるのは当然といえます。

そうやって、可能性を潰して潰して、それでも再現性が認められて、かろうじて「科学的」、と言われるわけです。

脳トレがいっとき流行りましたし、今でも流行っていますが、脳トレをやったところで、鍛えられるのはその「脳トレ」をするために必要な脳の部分だけ、とも書かれています。

脳トレは、意味がないとは言いませんが、決してボケ予防になるものではないのです(もちろん、科学的な根拠に基づいたものもあるでしょうが、それも全ての人に有効なわけではないでしょう、脳にも個性があります)。

むしろ、体を動かし、しっかり食事をし、適切な睡眠をとって、自律神経を穏やかに保つことのほうがよほど脳に対していい影響があると思われます。

それでも、認知症になる人はなりますし、加齢により機能が衰えるのは当然なのです。

 

というわけで、豊富で興味深い例示の数々で、難解になりそうな内容を噛み砕いて説明してくれている良書だと思いますので、お手にとってはいかがでしょうか(ただし、この本も何らかの陰謀によって書かれている可能性はあります……)。