べにーのDoc Hack

読んだら博めたり(読博)何かに毒を吐いたり(毒吐)する独白

『神話で読みとく古代日本』松本直樹

 

(20200309誤字修正) 

 

古代史系の新書が出ているととりあえずチェックしてしまうほどには古代史好きです(マニアではない)。

本書では、神話という装置を用いて、いかにそれが(主に中央政権によって)利用されてきたのか、ということが書かれていた、と思うのですがあんまり覚えてない……。

古事記』『日本書紀』『風土記』などのテキストの分析もしつつ、その相関関係や相違に注目して、神話の話をしよう、という感じでしょうか。

スサノオの大蛇退治がペルセウス型神話と共通している、コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの説話にはバナナタイプである、といった基本的な部分を抑えつつ、『風土記』にはない大蛇退治がなぜ用いられたのか、オオキミの寿命を決めることになったコノハナサクヤヒメの説話がなぜ必要だったのか、広範囲に展開していた人々の受け継いだ物語をベースとして、登場人物を入れ替え差し替え取り込んで、結果として受け入れられやすい神話が作られたのだろう、という考察がなされています。

古事記』に見られるウケヒの分析はかなり面白いです(「言葉による前提条件を持たないウケヒ」で、神意を実践者に読み誤らせる、なんていうのはミステリっぽいですね)。

スサノオが、中央の神話に取り込まれる過程で、別の神格を付与された、というのも、私には思いつかなかった視点です(『風土記』に見られる素朴な神性が、高天原に殴り込みをかけるような荒んだ男になったのはなぜか)。

オオクニヌシの話もかなり細かく分析されています(ヘラクレスオフェリウスオルフェウスを兼ねたような神性だな、とこれを書きながら気づきました……ということは作為的な神性、という意味なのですが)。

皇祖神よりも上位の神が『古事記』には描かれており、それが全ての黒幕タカミムスビ(とカミムスビ)である、という説はよく知られていますが(?)、黒幕というよりは、アマテラス系の神話を持った人たちが、それまで民衆に膾炙していたタカミムスビ系の神話をうまいこと取り込んだ、というのが妥当なところではないか、という感じです。

「天の下」という概念がいつ確立されたのか、という時制に着目しての論も面白いですね。

「天の下」、つまり大和地方をベースにして高天原の様子が創造された、というのはなかなかに狭い世界の理解なのですが、なぜ「天の下」は大和地方なのかといえば、そういう神話があったのだ、ということになるのでしょう(「記紀神話」は、言ってみればもっとも新しい神話なのですから)。

それなのに、なぜ九州の神話が残されているのか、とか面白いですよね(いっつも疑問だったんですよね、直接大和に天孫降臨させときゃよかったのに……なにかそれを拒むものがあり、それが統治には必要だったのでしょう)。

オオモノヌシって何者、というのも、まあずっと言われていることですが、トンデモ説も大好きなので、違う名前の神を同一の存在とみなす、という理屈で妄想することがよくあります。

逆に、同じ神が複数の名前を持っていたら、それは異なる神が一つにされている、という理解をする必要があります(どこかの時点までは、別々の神だったものが、何かの操作で同一と思われるようになる……理屈としては、本地垂跡説だって似たようなもので、現代から見たらこじつけですが、当時の知識で世界を理解するために必要な操作だった、ということでしょう)。

あと、ちょっと目から鱗ぽろりだったのが、スサノオの言っている「妣」って誰よ、というお話(あ、『古事記』です)。

ううむ、これはちょっと盲点だった……『古事記』と『日本書紀』をどうしてもまぜまぜしてしまうもので、素人は……。

日本書紀』では、いつでも「一書(あるふみ)」という異伝の併記が問題になるのですが、これも神話を理解する(あるいは『日本書紀』を読ませる)ための仕掛け、として考えることができる、というのがとてもエキサイティングですね……こういう方向でくるか、と……。

日本書紀』の神代紀はこれが貫かれていて、読むほうがそのことを意識していたとしても幻惑されてしまうので、うーん、あれを思い出しましたねあれ……なんだっけ、あ、『イデアの洞窟』だ。

 

イデアの洞窟

イデアの洞窟

 

 

ラストは『風土記』、ほぼ完本として残っているのが『出雲国風土記』というのが、もうなんだろう、何者かの意図を感じてしまいますけれども(それだけ出雲が重要だった、ということなんですけれども……)、この分量で、出雲におけるスサノオ、オオナムチ、カミムスビについて触れられ、最終的に中央の神話との関係性への一つの結論が書かれているので、面白いです。

特に、郡や郷の地名由来が延々と語られるのが『出雲国風土記』なんですが、それがお上の要請とちょっと異なっている、というのがまた燃えますね(?)。

こういった方向性で考えてしまうと、高田崇史大好き人間としては非常に困ってしまうのですが(?)、どっちも面白いからまぁいっか、という程度には古代史好きです(マニアではない)。

 

「神話は「いにしへ」の出来事を語るものである。それに対して、昔話は「むかし」の出来事を語るものである。「いにしへ」と「むかし」、どちらも遠い過去を指す言葉であるが、両者は語源からして意味が異なっている。」(p26)

 

「言葉による前提条件を欠くことは、ウケヒ実習者の神意理解力を試すという、ウケヒ本来の目的とは別の方向へと文脈が導かれることになる。」(p65)

 

「神武の東遷は、つねに「上行」「上幸」と表現されている。もとより倭は、国土における思想的に最も高い場所として設定されていて、それは上巻の時代から変わらなかった。」(p144)

 

「さて、なぜ「天の下造らしし」がおかしいのか。それは「天の下」という世界観の問題である。「天の下」という語は漢語「天下」の翻訳語であるが、「天下」とはそもそも中華思想に基づく帝国の呼称である。日本の上代文献に散見する「天の下」も、天皇が統治する政治色の濃い国家の呼称なのであり、物理的に存在する土地の意味でも、豊かな作物を育む土壌の意味でも、オミヅヌが引いてきた島根半島という特定の地域を指す語でもないのだ。」(p235)