あまりたくさんのブログを書いても仕方がないのですが、しっかりカテゴライズしたいというのもまた事実。
年間、何冊の本を読んでいるのか、よくわかりません。
基本的にはエンターティンメントが多いです。
あとは新書。
学術書はめったなことでは読みません。
私の読書に対する姿勢を、自分で勝手に「淀川長治方式」と呼んでいます。
故・淀川長治氏が、「どんな映画にも、一片の観る価値がある」とおっしゃっていたことを聞き、「どんな本にも、一片の読む価値がある」と思って読んでいます。
じゃないと、「お金出したんだから、損してしまうじゃないか」、ということでもあります。
読書が大衆に広がったのは、それほど古い話ではありません。
江戸時代の日本の識字率が非常に高かったことは知られています。
それ以外の国ではどうだったでしょう。
西洋では、宗教改革の時代、最大のベストセラーである『聖書』がラテン語から各国語に翻訳されるようになります。
その頃には、ラテン語はともかく、その地方の言葉が読み書きできる層がある程度いたのだろう、と想像できます。
しかしもちろん、文盲である人たちもたくさんいました。
教会には、イエスの生涯や、『聖書』の様々な場面が、絵で表現されています。
聖職者はこの絵を信者に見せながら、教義を説明していたのです。
日本には『地獄草紙』といった絵巻物が残っていますが、あれも似たような使われ方をしたのでしょう。
宗教は魂を縛るものです。
大いなるものの「代行者」「代言者」と、一般の信徒の間には、厳然とした差があります。
多くの宗教は、「帰依」は求めても、「出家」を求めることはしません(民族宗教は別です)。
みんなが「出家」すれば、よほどいい世界になりそうなものですが。
宗教者は、「神に祈るだけ、では生きていけない」ことをよく知っているのです。
誰もが「出家」してしまったら、誰が働くのでしょう。
俗世を捨てて「出家」したのに、結局俗世のように、誰かが働かなければならないのです。
なんのための「出家」なのでしょう。
そして、もし誰もが「神の言葉」を読むことができてしまったら、「代言者」たちの言葉には耳を傾ける人はいなくなるかもしれません(それは誤解なのですが)。
ですから、教典は宗教者で独占されていなければいけなかったのです。
宗教は、魂を言葉で縛るものなのです。
複雑な機械を扱うにはどうしてもマニュアルが必要となります。
ある程度の読み書きができなければ、働くことができない時代になったのです。
他にも様々な要因があると思いますが。
大衆文学(エンターティンメントだけでなく、学術入門書や新書なども含めて)、というものは、だいたいその時代に成立したのではないかと思います。
文明の発生から人間とともにあっただろう「音楽」や「美術」、言葉の登場とともに広がった「芝居」に比べれば、大衆文学はとても若い娯楽・芸術です。
世界には、まだたくさんの、本を楽しむことができない人たちがいます。
そんな人たちの手に、いつか本を楽しむ時間が渡るように、大衆文学を守っていかなければいけないのだと思います。
というような高い志もなく、ただ感想を書いていきたい今日この頃です。