入門書を……と思ってタイトルに惹かれて買ってみたら、入門書どころか超・玄人本だったという(放送大学の講義をもとに書かれているらしいので、つまみ食いできる入門書ではないわけです)。
「朱子学」と「陽明学」のおさらいをしたかっただけなのに、脳みそから煙を出しそうになりながら読みました。
辞書的な「朱子学」と「陽明学」の説明は、何が書いてあるのかさっぱりわからないもので。
読了しても、説明できないということは、未ださっぱりわかっていないのでしょう。
「「天下の憂いに先立ちて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ」、略して<先憂後楽>の精神こそは、宋代の士大夫たち自身が愛好し、自分たちの理想として高く掲げた文句であった。」(p35)
よく聞く「先憂後楽」。
徳川光圀が自分の庭園に「後楽園」と名付けたことからも有名な言葉です。
ポイントは、「自分たちの理想として高く掲げた文句」だというところで、つまり「現実は理想からはるかに遠い」ということです。
その中で、何人かの士大夫たちは、確かに「先憂後楽」の精神を持っていたのでしょう。
「そこで肝心なのは、江戸時代における儒教受容が、一部を除いて個々人の修養に重点を置いてなされた点にある。もちろん、そのことは、唐以前の儒教と比較した時の、朱子学・陽明学の特色であり、それゆえに日本でも広まった考え方であったわけであるが、本場中国では、朱子学・陽明学といえども、その局面にのみ限られるのではなく、経世済民の理想をつねに掲げていた。」(p79)
鎌倉時代以降流行したものに「禅」があります。
ある程度社会構造が固定化され、軍事や経済が安定すると、個人主義的な思想が好まれるものなのかもしれません。
「だが、必ずしもこうした哲学的・宗教的な文脈にかぎらず、この字の広義での使用は一般化していた。加えて、唐の第三代皇帝高宗(有名な則天武后の夫)の本名が治であり、古来、皇帝の名前に使われている字は使用をはばかるしきたりであったため、唐代のかなり長期間にわたって「治」字は使用禁止となり、多くの場合「理」字で代用された。たとえば「孝治(孝によって治む)」を「孝理」というように。そのため、「治」字がもつ政治分野での使用頻度を、ほぼそっくり「理」字が請けおうことになった。<理>は日常語化した。」(p84)
これは、「第6章 性即理と心即理」の中の文章です。
「理」の概念はともかく、「古来、皇帝の名前に使われている字は使用をはばかるしきたりであった」というような理由で言葉って変わってしまうんだな、と妙に感心しました。
「「外物に対処する際の感情を統御するために、物と接する以前の時点においてあらかじめ心を修めておく」という朱子学の敬の修養法は、日々さまざまな物事に連続・不断に接していかざるをえない、人の日常生活を無視した机上の観念論にすぎない。むしろ、外物と接触するその現場において、みずからの心を正しく持っていくことを実地に身につけていく、それが陽明学にいう事上磨錬であった。」(p94)
「外物に対処する際の感情を統御するために、物と接する以前の時点においてあらかじめ心を修めておく」……その外物に今まで一度でも遭遇していれば、発露する感情のほとんどは自動的です(統制されるまでもなく、統制されているのです)。
一方、その外物に一度も遭遇していなければ、発露する感情のほとんどは特定され(「驚き」です)、その後の感情は最初の感情が去ったあとの観察の結果でしかありません。
現代人であればそう考える(場合が多い)のではないでしょうか。
現代の脳科学や認知心理学などの観点から、近代以前の認知論を語ることは野暮というものなんですが、もはやそういったフィルターを通してしか思考できないからしかたありません。
人間は、手に入れた知識を自動的に使う生き物なのですから。
何も知らないあの頃には、決して戻れないのです。
「専門家の間では、すでに何百年も前から日蝕・月蝕の仕組みが明らかになり、予測もつくようになっていた。しかし、天変地異は天命の現れとする儒教神学の教義上、すべてを機械的に説明することは忌避されてきた。」(p145)
「天命」を設定した以上、星の動きと地上の営みには因果関係が必須となり、そのことが一部の科学的思考の停滞を招いた、とも言えそうです。
いくつか気になった部分を抜き出してみました。
内容は面白かったのですが、これを簡単にまとめられるほどの東洋史の知識が私にはないのです。
うーん、次はもうちょっと、「○○でもわかる」系の入門書を選んでみようか。