「まど」っています。
小説家(といってもファンタジーを数作出しただけの駆け出し)である物集のところに、初めてのファンレターがやってくる。
それは、「この世で一番面白い小説のアイデア」を思いついてしまった、という(おそらく)女性からのものだった。
彼女(?)はどうやらアイデアは思いつくものの、小説というものを書いたことがない、ついては物集に小説の書き方を教えてほしい、というものだった。
工学部の大学院生の友人をともなって、勇気を出して彼女に会いに行く物集。
そこで出会ったのは、世間擦れしていない、触れれば壊れるような、いまひとつ反応の遅い女性(だと思う)だった。
こうして、塾講師のバイトを削ってまで、物集は彼女に「小説の書き方」を教えることになるのだが……。
作中で、『小説創作塾」という本が出てくるのですが、その本が欲しくなった私です。
いえ、今までに何冊か「小説の書き方」的な本を読んだことがあるのですが、どう考えてもその本が一番面白そうなので……。
閑話休題。
個人的に、一人称の小説ってあまり好きではなかったのですが(理想は、森博嗣的一人称風三人称) 、ミステリを読むようになって好きになりました。
嫌いだった理由は、その「饒舌さ」です。
人間、そんなに饒舌じゃねえよ、と思っていたもので。
でもまあ、小説なのでよしとするか、と。
エンターテインメントの中で小説を扱う場合、それをいかにしてコンピュータープログラムと融合させるか、というテーマにしばしば遭遇します(私ですら思いつきます)。
例えば『ノックス・マシン』(法月綸太郎)。
この手の話は大好きです。
本作でも、「小説の見開きの中で、文字の画数から濃淡を分析し、その中に現れるパターンから作家の癖を発見して文章を作り出そう」という、書いていてもよくわからない実験が出てきます。
PC上の文字には、Unicodeというものが割り当てられていて、小説の中の全ての文字をUnicodeで記述し直して、そこに何らかのパターンが見いだせないものか、と妄想したことがあります(これも、訳がわかりません)。
人間、まだまだ「小説を書いてしまうPCプログラムあるいはAI」というものを想像しきれていないようです。
ええと、一人称の話です。
そう、一人称は畢竟饒舌になってしまうのですが、その語り口調というのが実は落語や講談などの「一人芝居」に近くなり、「話芸」としての地の文の重要さが浮き彫りになります。
その点、西尾維新氏や野﨑まど氏の一人称というのは、リズムがあり、意表も付いてきて、ツッコミ天丼ノリツッコミ搭載済みなので、読んでいて楽しくなります。
京極夏彦氏の、榎津礼次郎ものも、大爆笑ですよねぇ(そう?)。
そういった、軽妙であれ重厚であれ洒脱であれ、読んでいて楽しい一人称が書けているだけで素敵だな、と思います。
ネタの方は、途中で割れてしまったので、なんとなく最後まで楽しめない感じでした(ミステリ読みの悪い癖は、残りページから結末を逆算してしまうところでしょうか)。
しかし、登場人物が2次元的に魅力的なところなんか、今の若い人の心をキャッチアンドリリースするのではないでしょうか(放してどうする放生会)。
うーん、そうか、『【映】アムリタ』や『舞面真面とお面の女』に比べると、怖さが薄れている文だけ、物足りないのかな。
読んでみて、やはり西尾維新フォロワーだと思いつつ、独自の路線を歩いていける人なんだとも思います。
どんな地平を切り開くのか、もう少し読んでみようかな、と。
「僕は覚悟を決めて口を開いた。
「その……」
「ニャッ?」
「いえ、なんでも」
駄目だ。覚悟はできていなかった。やっぱり恥ずかしい。ただでさえ恥ずかしいのに、ニャッていう人に相談するのはもっと恥ずかしい。」(p101)
「この世で一番面白い小説」……ああ、このテーマで小説を書けることが恐ろしいニャッ。