ヘレン・マクロイといったら『歌うダイヤモンド』しか知らないのですが(読んでないし)、古典といいますか、黄金期の本格もちょいちょい読んでおきたいので購入。
ナイトクラブの歌手フリーダは、婚約者であるアーチー・クランフォードの故郷「ウィロウ・スプリング」に一緒に旅立つ準備をしていた。そこに、謎の人物から「ウィロウ・スプリングには行くな」という脅迫めいた電話がかかってくる。
もちろん彼女は、脅しに屈せずにウィロウ・スプリングに出かける。そこで出会ったアーチーの母親は、ロマンス小説家として成功していたが、決して裕福とは言い切れなかった。そして、その家ではフリーダの荷物が荒らされ、またしても謎の脅迫電話がかかってきた……それも、内線電話を使って。
フリーダは恐怖に怯えながらも、退散しようとしなかった。その夜、「ウィロウ・スプリング」の上院議員の家ではパーティーが行われ、様々な人が招かれていた。その中に、アーチーの母親のいとこで、ヨーロッパから戻ってきた社交界の有名人チョークリーがいた。とても風変わりな人物で、最終的にはそれほど風変わりではない死に方をした。パーティーがおひらきになる前に、どうやら毒を盛られて死んだようだった。彼の死が、フリーダへの脅迫とどう関係してくるのか……。
マクロイ初期の長編(1942)、本邦初訳というふれこみですから、あまりストーリーに言及するのも興ざめということでこの辺りに。
まず、プロットが絶妙です。
なるほど、こういう書き方をすれば、世界をがらりとひっくり返すことができるのか、というお手本を見せられたような気がします。
簡単な話で、ミステリとしてはありふれたものなんですが(別に叙述トリックではないです)、「全部書くな、徐々に書け」というだけのことが、これほど効果を発揮するとは思ってもいませんでした。
また、書かれた当時の情勢(第二次世界大戦)も説得力を持っていて、名探偵として登場する精神科医のベイジル・ウィリング博士がどこか倦んでいるのもそれに結びつけられています。
最初から漂っている、なんとなくの違和感。
挟み込まれるエピソードが暗示する、あるネタ。
そしてそのネタがどーん、と登場するのですが、なんとそこで解決しない。
普通、このネタを使ったら、もうそいつが犯人(まどろっこしい書き方で申し訳ない)なんですが、そのネタを放置した状態で話がさらに進みます。
あのネタにこんな使い方が……しかもそれが1942年にやられていた、というのはとても驚きました(荒唐無稽ではありますが、おそらく当時の最新の知見によっているので、舞台が現代でもそれほどおかしくはないでしょう)。
いやぁ、よく練られた、上質の本格でした。
あと何本か、マクロイを読んでみたくなりました。
「どうして長さはいつも哀調を連想させるのだろう? よく使う言い回しで、悲しげな顔のことを”長い顔”という。笑い声は短い音の連続だが、もの悲しい風音は長く引きずるような音だ。」(p26)
セクハラ発言ですが、女流作家らしいきめ細やかな描写も、好き嫌いはわかれると思いますが、この緻密なプロットを支えているのではないか、と思います。