古代の謎・抹殺された史実―物部・葛城・尾張氏と東海のかかわり (Parade books)
- 作者: 衣川真澄
- 出版社/メーカー: パレード
- 発売日: 2008/01/19
- メディア: 単行本
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ふう……メインのブログの方で、メニューをつけたり、カテゴリの整理をしたりしておりました。
その過程で「はてなブログPRO」に加入してしまいましたよ……。
まあ、「はてなダイアリープラス」には入っていたので、あんまり変わらないわけですが。
さて本書は、「とりあえず、古代史と尾張・三河関係の本がないかな」と思って探っていたところ見つけたものです。
著者は、広島出身ですが、岡崎にお住まいになり、地域のことに興味を持たれたようで、他にも著作があります。
古代当時は東国に含まれていただろう東海地方、どのような勢力があり、それが大和朝廷(原・大和朝廷というべきでしょうか)とどのような関わりであったのか、『古事記』『日本書紀』からだけではなかなかわかりません。
ただ、近年は、埼玉の稲荷山古墳の鉄剣刻文が解明され、どうやら原・大和朝廷の手は東国もかなり東まで伸びていたことがわかっており、いろいろと再構築していく段階にあるのではないでしょうか(例えば、富士山への言及がないこととか……すでに研究されているんですけど)。
そんな中で、東海地方の豪族のことも、また研究が進むのではないかと(いや、進んでいるんですけれど、何しろ考古学的知見が私にはないもので……どうしても文献ばかりで)。
あ、本書のことでした……基本的には「記紀神話」を元にしながら、その中のエピソードに焦点を当てて、それに加えて神社の社伝などから、古代日本全体、また東海地方で何が起こっていたのか、を推理していったものです。
「記紀神話」の登場人物に、著者が検討した名称が当てられていたり、ところどころ読みづらい部分がありますが、これを読んで三河地方にも興味が湧いてきました。
披露されている推理に対して、完全首肯かととわれると微妙なのですが……何しろこちらはしっかり研究をされており、私はといえば「妄想」するのが趣味なだけなので……。
ただ、地元・愛知県のことを、まだまだよく知らないな……と認識を新たにしたことは確かでございます。
ところで、↑の本では、日本史の「トンデモ説」を取り上げて論破しているのですが、その中に、
という章があります。
ま、簡単にいえば、原田常治氏がはじめたとされる「神社伝承学」(※原田氏がそう読んだわけではありません)について、小倉一葉氏、関裕二氏、飛鳥昭雄氏、三神たける氏なんかの手法を批判しているわけです。
ということは当然この中に、高田崇史氏も入っているわけなんですが、まぁ高田さんは小説家ですからね……。
私自身、神社の伝承に興味はありますし、それを元に妄想して楽しんでいることが多いです。
「大神神社」のことも、メインのブログで長々と考察したりしています。
また、関裕二氏の著作は参考にしますし、飛鳥・三神両氏の著作は、元「ムー」っ子としては見逃せません。
何が面白いのかというと、「快刀乱麻を断つ」ところでしょうね、きっと。
奈良時代に、日本にキリスト教が渡ってきたって全然いいと思いますし、何なら西洋人がきていても問題ありません。
文献上のわずかな記述を手掛かりに、そういった説をぶち上げることだって、否定されるべきではないでしょう。
ただ、それが歴史学なのか、と言われると違うと思います。
『古事記』『日本書紀』の神代の部分は「神話」ですから、その部分を歴史として扱うことには「?」がつきます。
「神話」が、なんらかの歴史的事実を含むのではないか、という発想は確かにありますが、それは歴史学で検討されるべきことではありません(「なぜ、そのような神話が必要とされたのか」、ということであれば、歴史学の部分かもしれません)。
そして、神社伝承は、この『古事記』『日本書紀』の神代の部分とどっこいどっこいの曖昧さでしかなく、少なくともその伝承が「いつまで」遡れるのか、が検討されない限りは、最古と考えられる伝承である『古事記』『日本書紀』を否定することはできないでしょう。
「『日本書紀』は何かを隠蔽しているのだ!」というのは、確かにそうなのかもしれないのですが、それを証明することは簡単ではありません(歴史学だけでなく、文献学の知識も必要になってきます)。
私も歴史学の末席を汚したことのある身ですから、自分の妄想を歴史学的だ、などと思ったことはついぞありません。
どちらかといえば、高田崇史氏(氏がどう思われているかはともかく)に影響されて、小説(の元ネタ)を書いているのに近いです。
その中で、原田常治氏が用いたような方法で妄想を繰り広げることもままあります。
自分の妄想を、「これが真実だ!」とはとても言えません。
全ての事実が記録されているわけではない以上、歴史はある程度曖昧で、それゆえに、フィクションの入り込む隙があり、古代にはその隙が大きい、というだけのことなのです。
仕事として「真実だ!」という人、信念として「真実だ!」という人、いろいろいらっしゃるでしょう(邪馬台国の百花繚乱ぶりをごらんください)。
そのことは否定しません。
しかし、もし「学」を名乗るのだとすれば、やはり第三者の批評に耐え得るものでなければいけません。
そういう意味で、真に「神社伝承学」というものを深めたいというのであれば、その伝承がいつ生まれたのか、に切り込んでいかなければならないでしょう。
素朴に伝承を信じることが悪い、とは全く思いません(イエスが本当に復活したかどうかと、それを信じるかどうかは別の話です)。
一方で、伝承は簡単に作られるものでもあります。
「学」を標榜するものは、素朴に信じること「だけ」ではいけないでしょう(対象に対する虚心と批評精神を忘れてはいけません)。
だんだん、何を書いておきたいのかわからなくなってきましたが、
「原田常治が収集した神社伝承なるものは1970年代当時の神社の発行物がほとんどである。それらに興味深い伝承が含まれている可能性はあるが、記紀に代わる資料価値を持つ、という可能性は考えられない。ましてや、神社の発行物をもとに記紀伝承をウソ呼ばわりするというのは本末顛倒である。」(『トンデモ日本史の真相』p157)
↑こういったことを忘れずに、妄想していきたいと思います。