べにーのDoc Hack

読んだら博めたり(読博)何かに毒を吐いたり(毒吐)する独白

ものすごく今さら『うみねこのなく頃に』(※未プレイ、漫画は読んだ)

(※この記事は、『うみねこのなく頃に』『ひぐらしのなく頃に』の真相に触れなさそうで触れている部分がありますので、ご注意ください) 

 

うみねこのなく頃に ~魔女と推理の輪舞曲~

うみねこのなく頃に ~魔女と推理の輪舞曲~

 

 

 

うみねこのなく頃に散 〜真実と幻想の夜想曲〜(通常版)

うみねこのなく頃に散 〜真実と幻想の夜想曲〜(通常版)

 

 

ああ、コンシューマで出ていたんですか(よく知らない)。

ものすごく今さらながら、「何故に『うみねこのなく頃に』は叩かれたんだろうか?」と疑問になって、しばらくネットを回遊していたのですが、うなずける話でもあり、そうでもない感じでもあり。

「好き・嫌い」はどうしようもないので(私は「嫌い」な方です)、それ以外のことに着目したところ、

 

・作品外での作者の語りがいろいろとまずかった

・作品内で、プレイヤーを罵倒するかのような言葉をキャラクターに言わせた

・最終的に「真相」をぼやかした

 

といったところのようです(他にもありそうですが、当時の熱狂(?)を知らないので、こんな感じかとまとめてみます)。

 

 

 

・作品外での作者の語りがいろいろとまずかった

 

↑これについて、「作者は作品で語るべし」、という意見と、「作者が作品について語ってもいいじゃないか」、という意見があると思います。

私は、半々、でしょうか。

いえ、作者の潔さとか、そういったことでなくてですね……作者が作品について、作品外で熱っぽく語っているのが、「読んでてちょっと気恥ずかしい」と思うんですね、私の場合。

作者の内面が垣間見えると、照れちゃうんです(読んでいる私が)。

だから、そういうことでなくて、作品の簡単な解説とか、小ネタばらしとか、そういうことであれば全然問題ないですし、もちろん作品だけで語ってもらってもいいです。

ただ、4年にわたって8本もシナリオを書いたのですから、そこに相当の思いがあって当然でしょうから、その思いを語る分には許容できます(誰得なのかは知りませんが)。

 

○こちら===>>>

sai-zen-sen.jp

 

↑これはオフィシャルなインタビューのようですので、読んでみてください。

 

なんか、気恥ずかしくなりません?

 

インタビューしている人がダメなのかな……講談社内部のことなんて私にはわかりませんけどね。

気になる部分を引用してみたいと思います(言及のない限り、竜騎士07氏の発言です)。

 

「そうですね。ユーザーさんに答えを教えることは、簡単と言えば、すごく簡単なんです。ただ、『うみねこ』では、真剣に考察した人たちだけに「ああ、そういうことだったのか……」と、言葉では説明できないような概念を感じてもらいたかったんですね。」

 

↑……ええと、確か『うみねこのなく頃に』はゲームでしたよね?

「真剣に考察した人たち」ではなく、「ゲームの目的を達成した人たち」は重要じゃないんでしょうか?

 

「よくテレビ番組なんかで箱の中に得体の知れないものが入っていて、その中に手を突っ込んで手触りだけでそれが何かを当てる、というクイズがあるじゃないですか。そんな感じで勇気を出して、実際に箱に手を突っ込んで触ってくれた人だけが本当のところをわかってくれる、みたいな感じ……それが『うみねこ』なんです。箱を開けて「中身はこれでした」って明らかにしてしまうことは簡単だけれど、ただ、そうなれば、多分多くの人は「なあんだ」って気持ちになると思うんです。それに、「あとで箱を開けるんです」とわかっていたら、人はわざわざおっかない思いをして手を突っ込みようなことはしないんですよね。」

 

テレビ番組には台本がありますよ、あれは「中身を当てる」というゲームではなく、「中身を推理して反応を楽しみ、さらに中身を開示して反応を楽しむ」というショーなんですよ、という(私の独りよがりの)ツッコミはおいておいて。

 

「勇気を出して、実際に箱に手を突っ込んで触ってくれた人だけが本当のところをわかってくれる、みたいな感じ」

 

これって、プレイヤーに対する甘えだと思います。

どうやら不確定性原理がお好きなようなので、それにならっていいますと、「箱の中身は、箱を開けるまで確定していない」として、プレイヤーは勇気を出して箱に手を突っ込んで触って中身を「推理」する、というゲームですよね。

そのプレイヤーが「推理」した中身が正解かどうか、「本当のところはわかってくれてますよね? だから箱は開けません」、っていうのは「勇気を出して箱に手を入れて中身を推理した人」をバカにしているし、「勇気を出して箱に手を入れて中身を推理して、なおかつ中身を当てた人」をもっとバカにしていると思います。

それは、創作者としての甘えだと思います。

 

「しかし『うみねこ』の場合では本当に考え抜いた人だけがわかって、わからない人にはわからない……という、真の意味でのゲーム性を追求してみたんです。ゲームというのは勝った人と負けた人で差が出なければゲームにならないじゃないですか。」

 

……ええと、だから「勝敗」をジャッジするのは、審判がいない以上はルーラー(作者)でしょう?

ルーラーがジャッジしない限り、それは「不確定」でしかないと思いますが。

「考え抜いた人だけがわかる」ということをどうやって保証するんでしょうか。

 

「しかし『うみねこ』は、至った人と至らなかった人で読後感に差が出るように作ってみたんです。私はそれこそがゲームなのではないか、と思ったんですよね。そういう意味では『うみねこ』は『ひぐらし』に比べるとだいぶ辛口になる。」

 

ああ、そういう意味でのゲームなんですか。

「勝敗」は「読後感」によってジャッジされるんですね……いやいや、それこそ千差万別でしょう。

そういうゲームはあってもいいと思いますが、前段で提示しているゲームとは違いますよね、明らかに。

「読後感」は、プレイヤーにあるもので、ルーラーのものではないですよ。

 

「そうですね。あの島でなにがあったのか、ということは最初から全て決まっていることなんですよ。ただ、それをどこまで見せていくべきか? 私は、「愛ゆえに殺しました」と口で言うほど白々しいことはないと思うんですよ。言葉にならないところで察する。そんなギリギリのところを書きたかったんですよね。」

 

漫画版を読んだ限り、あるキャラクターの「愛」が事件を引き起こした(らしい)、その部分についての言及だと思います(「らしい」のは、真相がわからないからです)。

「愛ゆえに殺しました」、と書くと白々しいから、「言葉にならないところで察」っしてもらえるように「ギリギリ」で「書く」。

……えっと、普通の小説の技法では?

多かれ少なかれ、そういったことを小説ではやっていると思いますが。

一方で、「言葉にしないと伝わらない」という技法もありますが。

ま、この辺りは、作品になにを取り入れるか、という話なので、どっちでもいいですが。

 

「ですから『うみねこ』というのは文字以上に行間を読んでほしい作品、なのかもしれないですね……」

 

それを作者が言うんですか……。

 

「竜 ただ、「あ、ここで終わらせてしまうんだ……」という戸惑いは皆さんのあいだには当然、あったと思います。」

ーーいや、それは正確に言うと、「ここで終わらせるという決断をできる人だったんだ……」という驚きではないでしょうか。竜騎士さんの本来の読者のレベルは相当に高いと思いますよ。」

 

・最終的に「真相」をぼやかした

 

↑これについての言及ですね。

先ほども書きましたが、私はこの行為を、「創作者の甘え」だと考えています。

インタビュアーの、

 

「ここで終わらせるという決断をできる人だったんだ……」

 

に関しては意味がわかりません(インタビュアーがそう思ったのであれば別に構いませんが、不特定多数の読者がそう思ったと代弁するのは何か気持ち悪いです)。

 

「竜 お話の筆の置き所はいつも難しいと思っていて、私はどちらかというと「蛇足」なタイプなんですよね。適当なところで終わらせておけばいいものを、つい書き足しすぎてしまうタイプ。その私が「一歩手前で止めておく」というのは、私にとってはすごい挑戦だったんです。

ーーたいへんに勇気のある挑戦だったと思います。」

 

本人にとっては挑戦でも、結局は「箱の中身は察してくださいましたよね? では本日の番組はここまで〜」っていうことですから、インタビュアーは突っ込まないといけないのでは?

 

「ーー(略)『ファウスト』のインアタビューで出てきた竜騎士さんの言葉で、EP3の名キャッチコピーにもなった「アンチミステリー×アンチファンタジー」という言葉を僕は直に伺っていたにもかかわらず、僕は竜騎士さんが本気でここまでアンチミステリー的なアプローチのエンディングを書かれることを信じていなかったくらいです。そもそも、アンチミステリーが好きな方って、本当に数が少ないんですよね。

竜 言葉の定義自体も定まっていないですからね。

ーー小説の世界でいうと、僕の感触だと、きっと三千人くらいしかいないんですよ、アンチミステリーをちゃんと楽しめる素養のある人は。ミステリーが大好きで、それでいてミステリーのダメな部分もしっかりわかっている人じゃないと……。」

 

作者に「言葉の定義自体も定まっていない」と言われている「アンチミステリー的アプローチ」って……結局なんのことかわからないってことですか。

あと、感触で数字並べるのやめてください。

 

「竜 私は、ミステリーって手品とよく似ていると思うんですよ。手品を「わあ、すごい!」って見せてもらうじゃないですか。でもその後に、「実は同じカードが何枚もあるんですよね」ってタネを見せられたら、「なるほど」と納得する比率が4だとしたら6くらいの割合で「なあんだ」となって、つまらない気持ちにならないですかね? 「今、すごいと思った摩訶不思議な気持ちを感動を返して!」っていう気持ちに(笑)。だから手品でいうと種明かしというのは本来は、無粋なことなんですよね。だから手品をミステリーとして楽しむ場合には、つまり「いやあれは実はもう一枚カードがあって、引かせたふりをして引かせてないよ」と考察するところまでは楽しい。けれどそれを手品師に向かって「実はそういうトリックなんですよね!」と問い詰めて、手品師が結局タネを明かしてしまうというのは無粋の極みだと思うんです。ところがミステリーでは……いやいや、いやだなあ、これ以上敵を作るのは。ミステリーの人とはもう喧嘩したくないんですよね(笑)。

ーーえっ、本当にそうなんですか?(笑)。

竜 ミステリーっていうのは、手品を見せてもらった後にタネ明かしまでマジシャンに要求する、不思議なジャンルなんです。手品では無粋なのに、ミステリーでは逆で、全部をみせろ、とお客が要求する。世界観としてね。だから手品の無粋さとミステリーの無粋さって真逆の関係なんです。私は手品では、驚かされたい、びっくりさせられたい、という気持ちがあって、それは推理小説に対しても同じで、たとえば「新本格」がそうであるように、「ありえない不可能犯罪」を私は見たいんですよね。「歩道橋から突き落とされて殺された」では、なにかつまらないですよね。」

 

まあ、個人の楽しみ方をどうこう言っても仕方ないんですが、確かにミステリーファンを敵に回しそうな話ですね。

そもそも、「手品≠ミステリー」なのに、それを同一視して語っているところで突っ込まれる。

私にとって「手品(マジック)」は、「不思議なことを見せる」芸術・エンターテインメントで、「ミステリー」は、「不思議なことを見せて、それを解体する」芸術・エンターテインメントです。

別のものです。

似ているから、比較して論じることはできますが、非なるものなので、同一視してもあまり意味はありません。

これは、竜騎士07氏個人の見解ですので、そう思われるのは自由で、しかしそれでも↑のような突っ込みは避けられないでしょう。

「不思議なことを見せる」芸術・エンターテインメントは「不思議なままでいい」ですが、「不思議なことを見せて、それを解体する」芸術・エンターテインメントが「不思議なまま」では、客が起こるのは当然です。

「手品」にしたって、極めてシンプルかつチープなトリックが、マジシャンの技量と演出によって装飾されて見事に騙される、そのタネを明かされて「な〜んだ、そんなことかよ……なのに何故気付かなかったんだろう! すげー!!」となるのが私です。

そして、この構造(竜騎士07氏にならって、これを「アンチ手品」と名付けましょうか)を「ミステリー」に持ち込めば、「そ、そうだったのかー!!」という大傑作だと思うでしょう、私は(あくまで、トリックを主眼においた場合です)。

私は、ですけどね。

 

「竜 そうです。それだったら「密室が五個あって、五個の部屋それぞれにバラバラにされた遺体が閉じこめられていて……」というほうが読んでいて「ドキッ」とするじゃないですか。現実性はないにしてもですよ。手品もそうで、ひとつの輪ゴムがふたつに増える手品よりは、美女が箱の中に閉じこめられてノコギリで切られる! というほうが「ワオー!」ってなる。「そんなバカな、きっとなにかトリックがあるはずなんだ!」という謎に挑みたい気持ち……にもかかわらず種明かしをされたときのつまらなさ……。私は推理小説の中で、名探偵が優れた推理を見せて答えを暴いていく過程の結果、「あなたが犯人です」って宣言した瞬間にはいつも、言い様のない「ああ、言っちゃった……」っていう残念な感じを受けるんです。

ーー僕はそこが、ミステリーが好きっていう人とアンチミステリーが好きっていう人との端的な違いだと感じますね。」

 

……ああ、本当にミステリをあまり読まれたことがないんだな、と納得しました。

名探偵が推理を外すことのどれほど多いことか……ご存知ない(それがアンチミステリーかというと、そうではないと思います)。

そもそも推理しないやつだっているのに。

そして、「ミステリー」は「手品」ではないのですから、そりゃ「不思議」を解体しよう、とするでしょう(「アンチ手品」だとしたら、ですよ)。

それで「残念な感じを受ける」のであれば、それは「ミステリー」を好きじゃないんでしょう。

読まなきゃいいのに。

 

「竜 推理小説が好きと言っている人には、二種類のタイプがあるんですよ。一つは本当に探偵と一緒に推理をして、自分なりに考察している「純粋な謎解きの人」。もう一つは実は謎解きなんて全くしていない、要は名探偵がいかにこの怪事件に挑むのかというのをただ見ているのがおもしろい人。つまりは「探偵の活躍が見たい、ヒーロー小説が読みたくて読んでいる人」。この二つのタイプが無自覚に混同されて、ミステリー好き、と呼ばれているんですよね。

ーーそれはよくわかりますね。後者の読者は、キャラクターとしての探偵だけを欲してしまう人ですよね。

竜 そういう読者の方々は前者の読者みたいに自分では思考をしないんですよね。「わあー、ひどい事件だね。不可能犯罪だね! 我らが名探偵はこれにどう挑むんだろうね! わくわく!!」と、ただ観賞してしまっているだけなんですよね。もちろん、これもエンターテインメントとしてはアリなんですが、本来ミステリーが「作者と読者の一騎打ちだ」と言われてきたような、ノックスの十戒ヴァン・ダインの二十則みたいにフェアに戦うための十戒、二十則なんてルールがあるミステリーの歴史を踏まえたら、探偵が謎を解くのを傍観するミステリーというのは「ミステリー風ヒーロー小説」でしかないのではないでしょうか。……やだなあ、『ファウスト』でこんなこと言ったらまた叩かれるんだろうなあ。『ファウスト』を読んでいる方は厳しい人が多いから。でも、そんなに厳しい方々ならば私のこんな主張をわかってくださってもいいと思うんですが(笑)。

ーーハハハ、僕もそう思いますよ(笑)。ちょっと悲しい話ですけど、ミステリー小説を読んで、本当に推理を楽しんでいる人って、僕はいいとこ読者の一割くらいだと思いますよ。

竜 そう。実際には相当に少ない。

ーーある程度以上、頭がよくないとやらないし、できないでしょう?自分が頭がいいと勘違いしている頭の悪い人はいつも「後だしじゃんけん」しかやらないし。」

 

……インタビュアー、止めないとダメでしょ、これ。

推理小説が好き」という層を二分してるけれど、単なる偏見ですよね。

「純粋な謎解きの人」「探偵の活躍が見たい、ヒーロー小説が読みたくて読んでいる人」に二分するなんて、大雑把過ぎるし偏見でしょう?

探偵の活躍しないミステリーなんて、いくらでもあるじゃないですか。

私は、多くのミステリーファンは、「不可思議な状況(謎)があり、それが解体されていく過程」を楽しみに読んでいるんだと思います。

謎は魅力的なほうがいいに決まっていますが、たとえ何てことのない謎であっても、それが「鮮やかに解体され」れば、十分楽しみになるんだと思います(日常の謎……好き嫌いはありますが)。

そして……「ノックスの十戒」「ヴァン・ダインの二十則」……これはいつから、フェアに戦うためのルールになったんですか?

これは、作者の推理小説への姿勢に関することで、しかもこの内容自体がフェアでもなんでもない、ノックスとヴァン・ダインの提案にしかすぎないですよ?

推理小説は、作者が書かなければ存在しません。

作者が「十戒」「二十則」に則っているのだとすれば、読者は、推理する者(登場人物じゃないですよ?)は自動的にルールに組み込まれるのです。

作者がそのルールに従っていないのであれば、読者もまた、ルールからは自由なのです。

それだけの話なんですけどね……。

作者が「十戒」「二十則」に則っているかどうかは証明できるのかって?

宣言されているかどうか、でわかりません?

宣言されていなければ、読者はルールから自由でしょう?

それを作者があとから「それは十戒に反している!」って宣っても……それを根拠に読者の推理を否定するのは、

 

「自分が頭がいいと勘違いしている頭の悪い人はいつも「後だしじゃんけん」しかやらない」

 

↑「後だしじゃんけん」そのものじゃないですか。

 

「竜 本当に謎解きが好きな人は推理小説を読み終わった後に、「明智小五郎はこう推理したけど、この解釈でも犯行は可能だよね」とか「えー、その推理でこの人が犯人である可能性は潰せる?」みたいな話をするはずなんですね。これは別に作家をバカにしているわけではなくって、そのミステリー小説をさらに楽しみ尽くしてやろう、という読者側からの努力ですよね。」

 

どうやって楽しもうと、読者の勝手だと思いますけどね……そんな読者に対して、今までも散々、毒を吐いてきた人たちがいることもご存知ないんでしょうか……。

安楽椅子探偵の事件簿』、やったことないんでしょうか……。

あれに嬉々として挑む人間がどのくらいいるのか、ご存知ないんでしょうか……。

 

「竜 私は今回の『うみねこ』という作品を、その自分で謎を考えて挑戦しているタイプの人たちに対する挑戦状としてつくってみたんです。ところが、そうではないタイプのミステリー好きの人にとっては『うみねこ』はとても邪道な作品に見えると思います。「え? 答え合わせしてくれないの? 探偵が全てを推理してくれないの?」いやそんなことはない。ヱリカや戦人が出てきて、真相を分解するところまではやってくれているんですよね。

 

↑そもそもミステリーファンの二分法が恣意的だし、何かの根拠に基づいたわけでもないので、そうではないタイプのミステリー好きの人」の想定が、氏とミステリーファンの間でかなりズレがあります。

私は、謎を推理して真相を解明する、という読み方も好きですが、「不可思議な謎が解明されていく過程」を楽しむことも好きです。

その層が、ミステリーファンの中では多い、というのが私の想像で、そう考えれば、「え? 答え合わせしてくれないの? 探偵が全てを推理してくれないの?」、という意見は相当的外れで、そりゃミステリーファンの怒りも買うでしょう。

「そうではないタイプのミステリー好きの人」を、最初に発表しておけばよかったんです(そうすれば、最初にボッコボコに叩かれて終わりだったでしょうに……)。

 

「いやそんなことはない。ヱリカや戦人が出てきて、真相を分解するところまではやってくれているんですよね。」

 

↑いやいや、それこそ読者がやってますよ……。

 

「ーー僕はミステリー小説の編集者の実感として、どのくらいの人数の読者がそういう部分を楽しんでいるかというのはなんとなくわかっているのですが……やっぱり日本では三千人程度かな、と。

竜 そんなものですか……(さみしそうに)。」

 

このインタビュアー××だな、おい。

なんだよ、「実感」って。

なんだよ、「なんとなく」って。

そんなこと言って、作者しょんぼりさせてどうすんだよ。

 

「ーーそんなものだと思います。しかし『うみねこ』は万単位でユーザーがいるわけです。だから、EP8のラストに関しては、やっぱりものすごいミスマッチが竜騎士さんと読者のあいだに起こったんだろうな、と想像できます。」

 

あ、なんだ太鼓持ちか、怒って損した。

 

「EP8のラストに関しては、やっぱりものすごいミスマッチが竜騎士さんと読者のあいだに起こったんだろうな」

 

……エピソードに関してのミスマッチじゃなくて、そもそも作者が想定している読者が「存在しなかった」ってだけでしょう?

作中の名探偵にキャッキャウフフしてる腐女子のお歴々が、まさかそれにしか興味がないとでも……?

 

「竜 だから『うみねこ』を理解できた人とできなかった人の違いは本当に明白ですね。中間はいないです。漠然と解っているようないないような灰色の人はほとんどいらっしゃらない。「わかんない」と言っている人々か「わかった」と言っている方々、この二例しか見たことがないですね。」

 

……え?

「わかんない」と言っている人々の「わかんない」にも、「わかった」と言っている方々の「わかった」にも、絶対に濃淡があるでしょう?

スペクトラムでしょう?

購入者全員からアンケートでも取ったの?

思い込みが激しいのはいいんですが、このインタビュー読んだらそりゃますます叩かれますよ……。

 

「竜 白と黒がはっきり出るようにしたかったんですね。考えても考えなくても全員が白に辿り着けてしまうようだったら、それは作品としてゲーム性がない。

ーーそれは『ひぐらし』の反省なんですか?

竜 私の中では『ひぐらし』の”やや反省”です。『ひぐらし』も考えて楽しむ作品なんですけど、考えても考えなくても同じ回答に行き着いてしまうことが作者として不満だったんですよ。考えていなかった人から「この結末は読めていた」と言われたとき、「本当に考えて当った人の名誉を守る方法がないんだな」と思ってしまったんです。これはずいぶん前からお話していたことだと思んですよね。ただ、その挑戦は非常に垣根の高いものでした。それは無謀で危険でリスクのある挑戦だったんだな、と。」

 

「考えていなかった人から「この結末は読めていた」と言われたとき、「本当に考えて当った人の名誉を守る方法がないんだな」と思ってしまったんです。」……その「考えていなかった人」が本当に「考えていなかった」ことを立証しないといけませんよね。

あ、「悪魔の証明」ですか?

ということは、「考えていた、と言っている人」が「考えていた」ことを証明すればいいわけで、作者の証明することじゃないでしょう。

「名誉を守る方法」……解答を書いて送ってもらって、ストックしておいて、最後に正解者を発表すればオフィシャルで守れるじゃないですか。

そこの努力を怠ったことは反省なのかもしれませんね。

 

「竜 うーん、たとえば言葉遣いでも、間違って利用されているほうがいつしか主流になってしまったものがありますよね。私は……こんなことを言うとまたフルボッコにされるんだけど、ミステリーはややその匂いがあると思っています。そういう意味では、私は古典を堂々と書いたんですよ。しかし、私がそう言うと「竜騎士はいったいどの程度ミステリーを読んだんだ」「おまえの読んだミステリーを言ってみろ」って言われてしまう。

ーーそれはジャンル小説のマニアによくいらっしゃる、頭の悪い「お年寄り」たちの戯言ですよ。彼らはいつも事典主義なんです。僕はそういった人たちが「これは○○ではない」というものが好きなんです。応援したいんです。僕はそういうものにしかほとんど興味がなくって……。たとえば『ファウスト』に載っているような小説の多くは純文学の人たちからは「これは文学ではない」、ライトノベルの人たちからは「ライトノベルではない」と言われるものなんですよ。」

 

「そういう意味では、私は古典を堂々と書いたんですよ。」……いや「古典的ミステリー」は書けても、「古典」は書けないでしょ?

それが「言葉狩り」だというのであれば、自分の読んだミステリーを堂々と発表すればよろしい。

別に、黄金期の古典を全部読破しろ、というわけではないんですよ。

ただ、どの程度読んだら、そういったことを自信満々に宣言できるのか、知りたいだけなんです。

私にはとても言えませんので(そういう意味で、確かにチャレンジャーですし、賞賛したい部分です)。

 

「ーー(略)だから竜騎士さんが言った「古典を書いた」という想いはすごいわかる気がするんですよね。だって、古典っていうのはつまり、まだジャンルとしての前提ができる前のお話なわけじゃないですか。僕が思うに、「これは○○ではない」というものの積み重ねだけが結果的に「○○」の保守本流を作っていくんです。たとえばクリスティが最初に『そして誰もいなくなった』を書いたときに「これはミステリーではない!」と当時の事典主義者が口を揃えて言ったわけではないですか。

竜 クリスティは今では「ミステリーの女王」ですけれどね。聖書の次に売れた本、とまで言われているんでしたっけ。

ーーその彼女にしたって、最初は「これはミステリーではない!」と叩かれたことがあるわけなんですよ。「これはアンフェアだ」と。「こんなのはミステリーとして認めては駄目だ」と。でも今や『そして誰もいなくなった』はミステリーの古典中の古典になっているわけで。もちろん「これは○○ではない」と叩かれるようなチャレンジには成功不成功があると思います。でもそこでクリエイターがチャレンジすることに恐れを抱いたり、あるいは編集者がクリエイターのチャレンジを積極的に応援していかないのであったら、「○○」というジャンルは衰退していく一方になってしまうと思うんですよね。「○○」というジャンルをアプリオリに認めてしまうファンばかりになってしまったら、そのジャンルはエントロピー的には「死」に至るだけです。」

 

……いやだから、「古典」は「書けない」でしょう?

「古典」は、「古典になる」だけでしょう?

「これぞ古典だ!」って掲げられたものがあったら、誰だって「それは古典ではない、古典的だ」って叩きますよ。

「これがいつか古典と呼ばれることになるだろう、という確信で書きました」というならまだわかりますけど、「古典を書いた」なんて言ったら……インタビュアーだって言っているじゃないですか、『そして誰もいなくなった』は、「古典中の古典になった」って。

あと、ジャンルの死を回避するために努力しているのは、何も竜騎士07氏だけじゃない、ということは書かないんですか?

 

「竜 そうですね。私にとって『うみねこ』という作品は「ミステリーというのは筆者と読者の対決!」という古典の原点に従って書いた作品なんですよね。二十世紀初頭か十九世紀のイギリスで懸賞金付き推理小説があって、ただそれが意外に簡単な謎だったんで皆が正解してしまったらしくて(苦笑)、賞金で会社が破産してしまった、という話をどこかで読んだことがあるような気がします。これはクロスワードパズルみたいな筆者から読者への挑戦だったんですよね。『うみねこ』は、そういうシンプルなミステリーにしたかったんです。もしも『うみねこ』が斬新な新世代の、つまり理解不能で妙なジャンルに見える人がいたら、そうではないんです。ステリーの最古典、もっともシンプルな、純粋に筆者がなぞなぞを出して読者がそれを解いて、解けた解けないを問う。なぞなぞとミステリーの境が曖昧だった頃の古典を私は書いたと思うんです。だから、『うみねこ』は近代ミステリーに対して造詣がある人にとっては、かえって理解の難しい作品だったんでしょうね。そういう意味ではミステリーに対して全く考えを持っていない若い方のほうが、「スッ」と読めたみたいですね。」

 

新聞小説のことかなぁ……ヴィドックの犯罪実録物とかご存知なんだろうか(ご存知でしょうね……私は読んでませんけど)。

 

「ミステリーの最古典、もっともシンプルな、純粋に筆者がなぞなぞを出して読者がそれを解いて、解けた解けないを問う。なぞなぞとミステリーの境が曖昧だった頃の古典を私は書いたと思うんです。」

 

「じゃあ、答え合わせがないのは尚更おかしいでしょ?」って言いたいんだと思いますよ、怒っている人は。

「近代ミステリーに対して造詣がある人」……こういうことを言ってしまうと、そりゃ叩かれますって(何度目だ)。

ミステリー、推理小説の起源をどこに置くのか、私は寡聞にして知りませんが(後期ゴシック小説辺りか、「マリー・ロジェ事件」の元になった話がありましたっけ)、「近代ミステリ」って何なのよ、って話になっちゃうから。

これが言葉狩りだっておっしゃりたいのかもしれないですけれど、仮にもテキストを編むことで禄を食む人間でしょ、言葉に責任を持たないといけないと思います。

 

「竜 私自身はそういうつもりなんですよ。そして私は常に、ミステリーというのはそういうものだと思っているんです。だから謎を先に明智小五郎に説かれてしまったら、ある意味自分の負けなんですよ。「あー、そういえば伏線はあったなあ、見過ごしていたなあ」と思わなければいけないんです。明智小五郎はいつまで出張しているんだよ、早く帰ってきて謎を解けよ」と読者が言っているようでは、それはミステリーの本質として少しおかしいんですよね。それはただのヒーローショーにすぎないんです。」

 

「「あー、そういえば伏線はあったなあ、見過ごしていたなあ」と思わなければいけないんです。」……いや、大部分のミステリーファンはそうやって読んでいると思いますけれども……。

だからこそ、「そんな伏線気づくかい!」って怒りたくなるわけですし。

「だ、第一行からあからさまに伏線が……」って驚愕したりするわけですし。

こういうことを書くから、「ミステリーがわかっていない」と言われたり、「ミステリーファンがわかっていない」と言われたりするんです。

「ミステリーファンがわかっていない」ということは、「ミステリーをあまり読んでいない」と言われても仕方ないんですよ(もちろん、ミステリーを読んでいなくてもミステリーが書ける、とんでもない人はいます)。

 

ここ二週間くらいの鬱憤が溜まっているので、まだ続きますけれども、日を改めて。

 

くれぐれも言っておきますが、私は竜騎士07氏の企みにまんまとはまった人間ですし、その企みは「面白い!」と思った人間です。

尊敬すらしています。

 

ただ、一方で私はミステリファンでもあるので、吐き出しておきたいものが残っているのです……。