クリスティーをちゃんと読んだことのない(あれと、あれと、あれと、あれは読みました……あとあれもか)私が、何気に手に取った『カーテン』。
英題には、「ポワロ最後の事件」と書いてあります。
うーん、『スタイルズ荘』を読んでいない人間が読むものではないような気がする……と思ってページをめくったら、いきなりスタイルズ荘が登場したので、「いやいや『スタイルズ荘』を買うべきだろうやっぱり……」と思い直しつつ、探したけど本棚になかったので、やっぱり『カーテン』を購入。
そういえば、そもそもクリスティの小説というのは、訳文の問題もあるのかもしれませんが、ひどく読みやすかったことを思い出しました。
その流麗な文体が、女性だからこそという現代的なセクハラめいた表現が当てはまるのかどうか、当時のことを考えれば、女性らしさと呼んでも差し支えない感受性で書かれているような気がするのですよね(語り手はヘイスティングスですけれども)。
まあさくさく読めた、で内容をしっかり覚えていない……という。
旧友ポワロを訪ねてスタイルズ荘にやってきたヘイスティングスは、あまりに老いさらばえた親友に心を痛めますが、元祖・灰色の脳細胞のほうはまだ獲物を狙っていたのでした。
過去に起きた5つの殺人事件、そのいずれにも関わっていたと思われる人物X……そしてXは今、このスタイルズ荘にいるのだ、と。
怪しげな人物、怪しげでない人物、当然のことながらヘイスティングスも巻き込まれて表面化する人間関係の構図の巧みさ、それを文章内で書き切る手腕(ただ、複雑になりすぎるとなかなか覚えていられない)、様々な印象がちらっと再読しても浮かんできます。
その中の一つ、確たるものを捕まえてみようと思うと、結局は「これもすでに1940年代にやられているんだな」という感覚です。
シリーズものの名探偵を抱える作家というのは、その名探偵をいかに退場させるのかで苦悩するんですね(ドイルのときから、もうそうなんだからしょうがない)。
山田正紀さんが解説に書かれていますが、本作には、クリスティの持っている、英国風といってもいい笑い、ユーモア、皮肉、諧謔、そういったものがほとんどなく、重めの文学作品を読み進めているように感じます。
エルキュール・ポワロを退場させるための作品なのだから、そうでなければいけないのかもしれません。
英国”よくわからん”ミステリ作家の代表・デクスターも、<モース警部>シリーズが回を重ねるごとに、だんだんとまともになっていった(……そうか?)ことを考えると、むしろこれも英国流なのかもしれないですが(うん、意味のわからん文章だな……)。
ミステリとして、この手が褒められたものなのかどうかはよくわかりませんが、まあ基本的に、クリスティとクィーンとカーは、何をやっても構いやしないです(その権利があると思います)。
後続の作家がなかなかしんどい……でも、あのネタと同じように、きっと一度は向き合ってみたいと思うネタではあるでしょう。
それを許さないのは、キャラクターに燃える日本のミステリ界だけ……かと思いましたが、諧謔にかけては左に並ぶもののいないお人とか、いらっしゃいますねそういえば……クリスティはキャラクターを書いているわけではない、ということなんでしょうか。
「私としてはそれほど確信はできないけれど。あなたはどうしてそんなひねくれたことが好きなんです、ポワル? いつでもなんでもむずかしくしないと気がすまないんだから。昔からそうです!」
「それが今ではもう病みつきになってしまっている? そう言いたいのですか? そうかもしれません。でも、安心してください。私のヒントは必ずきみを真実へと導きますから」彼はそこでいったんことばを切ってからまた続けた。「それにもしかしたら、そのときにはきみはそんなことまで知りたくなかったと思うかもしれません。そして、こう言うかもしれない、”もう幕を降ろしてくれ”と」(p299)
あれ、『スタイルズ荘の怪事件』、読んだ記憶があるぞ……。
ああでも、ミス・マープルものは一冊も読んでいない……うん、ちょっと今後はそっちに寄り道するか(さすがに、ミステリファンを自称していて、ミス・マープルを読んだことがないのは恥ずかしい気がする)。