クイーンくらい全部読んでおくべきじゃないのか人生において(だってクリスティは多いから)、というのを「人生の後期クイーン問題」と呼んでいるのは私ですが、何を読んだか読んでいないか、を今ひとつ記憶できなかったりしているので困ったものです。
というわけで『フォックス家の殺人』、これは多分、<ライツヴィル>ものを全部読もう、と考えての購入だったのだと思うのですが、二年前のことでよく覚えていません。
三部に別れた本作は、第一部では、ライツヴィル出身で、戦闘機パイロットのデイヴィー・フォックス大尉が凱旋するところから始まります。
戦争でダメージを負ったデイヴィー、その傷は神経にあって(今で言えばPTSDですかね)、最終的に彼の妻リンダを手にかけようとしてしまいます。
そこで、リンダは、かつてライツヴィルに起こった事件(『災厄の町』事件)を解決したエラリー・クイーンに相談を持ちかけることをデイヴィーに提案します。
デイヴィーの父親・ベイアードは12年前に、自身の妻であるジェシカを殺害した罪で現在服役中。
この事件が、デイヴィーの神経を蝕んでいる本当の原因ではないのか、とリンダは考えています。
つまり、エラリーは、すでに解決済み(と思われている)事件を掘り返して、(警察でもないのに)再捜査をして、あまつさえ(一縷の望みもそこにあるのかないのかわからないのに)服役囚の無罪を証明することに挑戦するわけです。
これは、名探偵が登場しなければ、リーガル・サスペンスとして語られるものなんだと思います。
警察小説にもできなくはないですが、未解決事件(コールドケース)ではなく、すでに解決している事件を捜査するわけで、旦那の神経症をなんとかしたい、という理由で警察が動けるものではなく。
まして、公判でもそれ以降も、自分が無実であると訴えているわけでもない服役囚の無罪を証明する、ということを警察がするはずもなく。
ストーリー上、弁護士を登場させる必然性もない(森江春策を連れてこないといけませんな)。
まあ、クイーンが登場する話を考えるわけですから、そういう展開にするのは当たり前なのですが、展開だけを考えるなら、何かしら装飾を施して弁護士を登場させるのが定石でしょう。
それはともかく。
クイーンが取り上げることの多いモチーフ「父と子」。
架空都市ライツヴィルに凝縮されている(当時の)現代アメリカの縮図。
世界大戦が人間の精神にもたらしただろう影響。
もう、なんか、ごりっごりの社会派なんですけれども。
すでに本格ミステリとしての王道からはみ出しているクイーンなので、驚きはしないのですが。
過去の捜査記録から事件を再現し、そこになんらかの瑕疵が存在しないのかを突き止めようとするエラリーのやってることは名探偵でもないし。
超・地味、といってもいいくらい。
ある一つの問題(パズル)から、そのとき何が起こったのか、そしてそれが意味することは何なのか……に迫っていく様は、かなりしびれます。
そして犯人……ああ、これは、そうですね、うーん、『◯◯◯◯』のクイーン版でもあるのか……そう考えると、劇的さを演出するためには使いやすい手段なのかな……使われ方はちょっと違っていますけれども……。
なんだかんだ書いていますが、面白いんだよなぁこれが……これだけでも、超絶に質の高い二時間サスペンスにできます(……え、もうしてましたっけ?)。
「「ではこの事件を引き受けてくださるんですね!」リンダはソファーからとびあがった。
エラリイは彼女の手をとった。「ぼくは百万発に一発というのが大好きでしてね」といってほほえみながら、「特に、一人の男が口にした一言と、二人のすばらしい若者に対する信頼のほか、手懸かりらしきものはなに一つないとあっては、黙って見てはいられませんな」(p99)
「そしてエラリイは、突然、か弱いものでも力を持ち得ることを知った。」(p385)