べにーのDoc Hack

読んだら博めたり(読博)何かに毒を吐いたり(毒吐)する独白

『吉田神道の四百年』井上智勝

 

吉田神道の四百年 神と葵の近世史 (講談社選書メチエ)

吉田神道の四百年 神と葵の近世史 (講談社選書メチエ)

 

 

メチエ高ぇ……。

古代史好きにとって、中世〜近世の神道というのは、面白いものではあるのですが、同時によくわからない……まあ本地垂迹説がいかんのですが……しかし、新しい教えが輸入されて、その土地で変容していく、というのは洋の東西を問わず行われているわけで、純粋な神道などというものが存在しない以上、勉強するしかないのです。

というわけで、神道史を考える上で、全くもって知らなかった吉田神道の本を読んでみました。

本書では、応仁の乱以降、京都の自分の家にあった斎場所(初代「神武天皇」が大和にきて、国中の神を祀った、とされているところ)を再建させて、その流れから神道界に君臨することになる吉田兼倶の業績がまず語られます。

よくある「正一位〜」という、神社(「おいなりさん」が多いでしょうか)の幟にある神階、あれなんだろうって思われているかたも多いと思います(私もそうでした)。

どこいっても「正一位」だしなぁ……律令的に「正一位」って結構すごいんですよね……で、律令的、ということは、その位を授けられるのは天皇しかいないのですが、吉田さんはその役目を天皇から委託されていた、と(あ、「おいなりさん」が「正一位」なのは、また別の理由があります)。

人間が神様に位を与える、それも天皇ならまだしも、神に仕える身分で……というのが一つ面白い所です。

また、戦国の世が終わり、「豊臣秀吉」を神に祭り上げることに功績を得た吉田家が、「徳川家康」に関しては、「南光坊天海」に敗北する、という、有名なお話を吉田家側から見た内容もあります(「天海」や「金地院崇伝」の側からは描かれますからね、ちゃんと吉田家も「徳川家康」の神号を決める際には意見を出しているのです)。

そして、案外知られていない、神道界の陰謀渦巻く勢力争い……古今東西、宗教は権力と無縁ではなく、政教分離なんてのは最近の発明ですから、それはもう……えげつないかどうかは感じ方次第なので何とも言えません、ただその業界にお似合いの勢力争いが行われているわけです。

飛鳥時代から明治の神仏分離まで、神道というのがどうなっていたのか、戦後生まれの我々には今ひとつ肌で感じられません。

神が生き延びた、と表現するべきか、復活させられたというべきか、御一新で神社は「神社らしく」なりました(江戸後期からの国学の動き、あるいは江戸初期からの水戸学等の流れはありますが、一般的には)。

それがいいのか悪いのか、ともかく「日本らしさ」の一端を担っていることは変わりないわけで。

仏教ばっかりじゃなく、神道のことも教えた方がいいと思いますね……まあ、仏教のことだって、大して学校じゃ教わりませんけれども。

 

「曰く、江戸幕府には寺社奉行という宗教を管轄する歴とした役職が存在するではないか、と。確かに、江戸幕府寛永十二(一六三五)年、寺社奉行を設置し、宗教に関することを管掌せしめた。その後、諸藩でも次々と寺社奉行が設置されてゆく。でも、寺社奉行はあくまで宗教行政を司る部局で、自らが祈祷・加持などの宗教行為や、祭礼などの宗教儀礼を担当するわけではなかった。」(p14)

 

「大規模な城郭を築き、数え切れない人を殺し、幾度となく神仏への誓いを反故にしてきた戦国時代の成功者たち。彼らは、神仏の祟りの呪縛から解放される過程にあったのだ。〜(略)〜そうはいっても、彼らは現在の我々が身につけているような近代的な合理性に到達したわけではない。この時代、神仏の力の減退を強調しすぎるのも、実態を見誤らせる原因になってしまう。」(p44)

 

「名もない人物が神に祭られるようになるのは、どうやら吉田家が活躍する室町時代後期からのようである。」(p74)

 

「そして、そのような全国のほとんどの神職の衣装が「白張」に定められる。他の装束は、幕府が禁止します。もしどうしても他の装束を着たいと希望するなら、吉田家の許状を受ければ、幕府はこれを咎めません、これがこの条項の趣旨だ。白張とは、無地の真っ白な服だ。

では、全国の大多数の神職の服が、この白張に定められたから、あちこちで白い服を着た神職が見られるようになったのかというと、必ずしもそうではない。神職の皆さんが白張を着用すれば、幕府はこれを咎めません、って言われても、神職は白張なんか着たくなかった。なぜなら白張は、「官人下賤の服」といわれる、身分の低い人が着る服と見なされていたのだから。〜(略)〜だから、彼らは、「吉田の許状」を取得しなければならない。」(p114)

 

本書後半では、江戸中期における吉田家最大の論敵(というか、何というか)として、尾張名古屋東照宮の吉見幸和という神主が登場し、また尾張藩のことが紹介されています。

御三家としてはあまり脚光を浴びることのなかった尾張徳川家ですが、皮肉にも明治に至る伏流水を実は延々と汲み上げていた、ということが、もっと知れ渡ると面白いなぁ……まあ、時代劇とかでは取り上げづらいネタなので、しょうがないのですが。