ブランド最後の長編は、ミステリならぬゴシックホラー的な何か……いや、ミステリ的でもあるのですが、すごいですね、三年前に読んだらしいのですが、全く覚えていない……。
ちゃんとした、英文学の中に位置付けられてしかるべき、オーソドックスな幽霊譚……なのでしょうか。
私は、どうも英米の幽霊譚というのがよくわからなくて、とはいってもそんなに読んでもいないのですが、わかりやすくない……『フランケンシュタイン』や『ドラキュラ』はわかりやすい、しかしあれは幽霊譚ではないのです。
ゴーチエの『死霊の恋』は読んだはずですが……ううむ、純文学へのアンテナの感度の低さ……本読みとしては如何ともしがたいエンタメ気質なもので……。
とはいえ、エンタメとして、重厚な翻訳物として読んでみて、面白いのは双子の間に生まれる亀裂、これはもう王道なのでミステリでやってしまうとさすがのブランドでも陳腐になってしまうのかもしれませんが、いい感じに重く、暗く書かれている……そして男の印象がほとんどないと……。
あと、幽霊が出てくるんですが、人間味を捨て去ってなお残る人間味をまとっていますよね、欧米の幽霊って(キリスト教、最後の審判のせいかなぁ……)。
それが苦手なのかな……日本の幽霊はもうちょっとわかりやすくて哲学的じゃない……あ、そうか、欧米の幽霊は上流階級が多いっぽいのが鼻につくのかな。
館が主人公、と書くと、まるで綾辻行人さんの<館>シリーズみたいになってしまいますが、どうも日本だと館のイメージが明治以降、ぎりぎりで東北のマヨヒガ、それ以外だとお寺、そして城……居住空間としての館と幽霊があんまり結びつかないですね……まあ、家に取り憑くと日本のは妖怪化することが多いし……鳴屋とか、影女とか、逆さ柱とか、目目連とか……この辺りの違いはなんでしょうねぇ……やっぱり、燃えちゃうからかな日本は。
感想を書いているようで書いていないですが、今パラパラと読み返して、ようやく少し思い出してきた……また読むかな……。
こんなコロナのご時世で、カミュの『ペスト』が売れていたり、『デカメロン』が話題になってみたり(なってないか)しているようですので、こんな本を読んでみるのもたまにはよいかもしれません……そして……あ、あれか、今思いついたんですが、ちょっとだけ『キマイラの新しい城』っぽい(どこが?)……殊能さんはぶっ飛んでいたなぁ……あののりで本書を解釈して書いてくれないかな、現在も存在する館として日本になぜか移築されてしまう……うーん、ありがちかつ大味なものしか見えてこない(『キマイラー』が大味と言っているわけではないです……はい……)。
「やがてクリスマスの季節になると、女家庭教師はあんのじょう、例の装飾用の植木を屋敷に持ち込んだ。現女王の夫君が故国ドイツから英国にもたらした、クリスマスツリーなる習慣だ。」(p103)
「自分本来の人格が跡形もなく崩壊してゆき、それを食いとめるすべもない今となっては、ーー二人の幼い少女たちへの無償の献身的な愛にしがみつくしかなかったので。
あの致命的な愛に。」(p197)
「「そうかな? 姉上にはどこか恐ろしいところがありますよ」とリチャード。「自分の呪い以外のことにはまるで関心がない。何世代にもわたる、罪のない無邪気な娘たちに呪いをかけてーー」
「あなたのためによ、ディコン」
「なるほど、わたしのために。だからこちらも姉上の非情なゲームに付き合ってきたんです……」」(p291)
「「……だから……」深々と息を吸い、「だから、リネスにはまだ幸福になれる余地があり、わたしのほうは二度と幸福になれないとわかっているのならーーなぜわたしがあの子と入れ替わって、あの子の代わりに不幸になってはいけないの?」」(p323)