べにーのDoc Hack

読んだら博めたり(読博)何かに毒を吐いたり(毒吐)する独白

『『新約聖書』の誕生』加藤隆

 

『新約聖書』の誕生 (講談社学術文庫)

『新約聖書』の誕生 (講談社学術文庫)

  • 作者:加藤 隆
  • 発売日: 2016/11/11
  • メディア: 文庫
 

 分厚いぜ講談社学術文庫

というわけで、キリスト教関係の本もたまには読んでみましょう、のコーナー。

ええと……非常に示唆に富んだ本なのですが、内容が濃すぎてちょろっと説明する、みたいなことが難しいです。

エスの生きた時代には『新約聖書』は存在しなかった(ブッダの時代に多くの経典が存在しなかったのと同じようなもので、開祖のいる宗教というのは、聖典が開祖の言行録になることが多いのですね、だからなかなか同時代には成立しづらい……近現代はそうでもなかったりしますが)ので、それができあがるまでの紆余曲折というにはあまりにあまりないろいろが、書かれています……専門的すぎて、読み物としてはどうなのかわかりませんが、非常に興味深いですよ。

というわけで、ぼそぼそと引用して終わりたいと思います。

 

「つまり民族は一つのエンティティー(意味あるまとまり)でなくなってしまい、かつての民族神崇拝は、歴史のお大きな流れのなかで消滅してしまう。しかしイスラエルの民の場合には、壊滅的な状態に陥ったにもかかわらず、ヤーヴェ信仰が消滅しなかったのである。神が民を見捨てたと考えてもよいような状況が生じたにもかかわらず、民は神を見捨てなかったのである。」(p27)

 

「しかし彼らは、実は神そのものともつながっていない。神の前で何が正しいかは、神が決めることであって、人間が決めることではないはずである。なのに彼らは、何が「神の前で正しい」かを自分たちは知っていると主張していて、これは神そのものを退けているのでなくてはあり得ないたいばである。」(p37)

 

「彼らも、神の前での正しい態度についての自分たちなりの理解にしたがって行動しょうとした者たちである。しかし小刀でテロを行うといった手段だけでは、ローマ帝国の支配に打撃を与えることはできない。そもそも小さな集団でしかない彼らにとっては、ローマ当局の要人に近づくことさえ容易ではない。ユダヤ人社会における親ローマ派のヘロデ派は、王や領主の勢力だから、彼らに近づくことも容易ではない。そこで彼らは、自分たちの国粋主義的理念からは裏切り者と考えられるようなユダヤ人の小物を狙うことになる。」(p45)

 

「イエスは人びとに直接口頭で語りかけることを活動の中心にしていたのである。これはイエスが民全体に働きかけようとしたという態度とよく見合っている。またシナゴーグなどで、ユダヤ教の神学上の議論や教えに接することも、大部分のユダヤ人にとっては口頭の言葉を通じてであったことも対応している。そして律法にも、書かれたものとともに、口承のものが同等の権威をもって存在していたことはすでに指摘した通りである。古代においては口頭の伝達における情報の方が権威があったということは、多くの学者が指摘していることでもある。」(p66)

 

「アンティオキアにヘレニスト系の教会とエルサレム教会系の教会の二つの教会が存在したのかどうかは、微妙である。一つの教会しか存在しなかった可能性がある。この場合、エルサレムにおける神殿の評価をめぐる対立、文化的違い(言語の違い)をめぐる対立は、アンティオキアではあまり意味がなかったということになる。」(p118)

 

「このことは本書での中心的関心にとっても、重要である。新約聖書にも書簡の体裁をとった文書がいくつもふくまれており、それらにおいても宛先が限定されている。」(p133)

 

パウロエルサレム教会主流と決別したのは、つまるところユダヤ人出身のキリスト教徒と異邦人出身のキリスト教徒からなる共同体の権威のあり方についての意見の対立からであった。」(p140)

 

「信じレバ救われる」ということが問題になるということにおいては、当人はまだ「救われていない」ということが前提になっている。まだ「義とされていない」。また当人は「信じる」とされていることを、まだ行っていない。」(p146)

 

「しかし神の立場から重大なのは、アダムがいわば半分だけ「神のようになったこと」である。」(p164)

 

「どちらが本当なのか、ということになる。しかし聖書の権威を認めるならば、聖書に記されていることはどれも本当である。しかし同じテーマについて対立する内容の二つの物語のどちらも本当だということはありえない。

とするならば、権威ある聖書の立場は、どちらも本当ではない立場だということになる。」(p166)

 

「しかし道徳的要求があまりにも理想的で、守ることが不可能だとすぐに分かるような要求も含まれてしまっている。たとえば、他人の妻を見て性欲をもよおしたら、それはすでに「姦淫」であり、目をえぐり出さねばならない(マタイ五章)。この教えにしたがって目をえぐり出した者は、古代以来、皆無であるようである。うがった見方をするならば、マタイはこのような「明らかに守れない掟」を示すことで、自信がなくて従順な「信者」をつくり出そうとしていたのではないか、と思われるほどである。」(p213)

 

「イエスの誘惑の場面で悪魔がイエスに世界のすべての国々を見せ、「この国々のすべての権力と繁栄を与えよう。それは私に任されている」と述べている(ルカ福音書四・五ー六)。この「世界のすべての国々」にローマ帝国がふくまれていないとは、文献上から考えられない。とするとローマ帝国の「権力と繁栄」は、ルカ文書の立場によれば悪魔に任されているということになる。ルカ文書が悪魔に任されているとされている権力にキリスト教を容認してもらうために書かれた文書でないのは明らかであろう。」(p225)

 

「また、政治的にローマ帝国は、全世界を支配しているとされていた。ローマ帝国の支配者も、帝国の版図の外にまださまざまな勢力が存在していることを知っている。しかしローマによる支配がかなりまとまった形を示してきた紀元前一世紀末ごろから、「今やローマは世界の主人公になった」「ローマは世界の支配者である」といったことが、演説などで頻繁にいわれるようになっていた。全世界を直接統治していなくても、重要な地域が直接の管理下に入れば、それで世界支配が実現したとされていたのである。」(p230)

 

「「悪い世界」を滅ぼす前に、まずこの光の粒を「良い世界」に取り戻さねばならない。ところで光の粒をふくみこんでいる「霊的人間」は、外部からの何の働きかけもないと、自分がじつは「良い世界」に属する者であることに気づかない。そこで「良い世界」の「父」は、「悪い世界」へ使者を送る。この「使者」が、ユダヤグノーシス主義では、「魔術師」と呼ばれたサマリア人シモンであtったりする。キリスト教グノーシス主義では、この「使者」はイエスである。」(p278)

 

「確かにキリスト教世界には、権威があるとされている文書が、曖昧な形ではあれ、すでに存在していた。したがって、「権威ある文書」といったものを作りだしたところにマルキオンの新しさがあるのではない。彼の新しさは、「権威ある文書」の範囲をはっきりと限定したところにある。それはマルキオンが権威を認めなかった他のキリスト教文書にたいしてばかりではない。口承伝承はすべて否定された。また旧約聖書の全体も否定されたのである。」(p285)

 

ラテン語ではじめて「新約聖書」(Novum Testamentum)という表現を文書のなかで用いたのは彼である。しかしテルトゥリアヌスはこの表現を、ラテン語圏のキリスト教徒たちのあいだではすでに広く用いられている表現として記している。旧約聖書が「律法」と「預言者」で構成されているのにたいして、新約聖書が「福音」と「使徒」からなることもはっきり述べている。」(p299)

 

新約聖書には「文字は殺す」という有名な言葉がふくまれている(第二コリント書三・六)。また「もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないだろう」といった言葉もふくまれている(ヨハネ福音書二一・二五)。新約聖書は書かれたものだが、書かれていることだけでは不十分であり、書かれているということ自体に重大な不都合があると宣言されているのである。新約聖書自体は、新約聖書がこえられることを読者に求めているのではないだろうか。」(p333)