べにーのDoc Hack

読んだら博めたり(読博)何かに毒を吐いたり(毒吐)する独白

『三国志 演義から正史、そして史実へ』渡邉義浩

 

 

はい、夏侯惇しか浮かばない、『三国志』ダメダメ人間という、歴史学科卒業の風上にも置けない人間が、さすがにそれではまずかろうということで買ってみました。

専門的で、基礎知識がないと結構きつい本だった……。

でも、冒頭から面白かったですよ、日本人がどのように『三国志』を受け止めたのか、というのが導入で、何しろ『日本書紀』の頃からですからね、日本人とは切っても切り離せない、という観点で考えてみると、面白いなぁと。

三国志』『三国志演義』について、通読していないので特に感想もないし、世間にはそれこそあふれんばかりの『三国志』本があるわけなので、ここからは引用でお茶を濁します。

 

「これに対して、中国の決定版である毛宗崗本『三国志演義』(毛綸・毛宗崗父子が改訂し、評を加えた『三国志演義』。以下毛宗崗本と略称)は、「奸絶(奸のきわみ)」の曹操、「智絶(智のきわみ)」の諸葛亮に、「義絶(義のきわみ)」の関羽を加えた三人を物語の中心に置く。」(p4)

 

関羽が「関聖帝君」と呼ばれて神様として全土に広がるくらいになっちゃってるっていうのが大きいでしょうね……それも「清代に入ってからのことである」そうですが(新しいな、割と)。

 

「毛宗崗本の面白さは、三絶の一人として、曹操を挙げる点にある。」(p7)

 

 

 

そうなんすね……。

 

「ちなみに、諸葛孔明・閑雲長は、姓+字(名の他につける呼び名)で表現されているが、曹操は姓+名(諱。名は死去した後には諱と呼び、使わないことが礼)で書かれている。二人の諱を避けているのは、毛宗崗の二人への尊重を示し、諱で書いているのは、曹操を貶めるためである。」(p7)

 

 

 

ほほう……嫌われ者の曹操さんなのですな。

 

「国家のために戦い途上で斃れた諸葛亮の生涯が、悲劇的にそれでいて美しく描かれている。『演義』へと受け継がれる「滅びの美学」である。明治の詩人、土井晩翠は、「星落秋風五丈原」の最後に、「高き尊きたぐひなき 『悲運』の君よ天に謝せ」と詠って、世人が諸葛亮を仰いでやまないのは、その志の成就にではなく、志を遂げられなかった悲運に対してであることを喝破している。」(p26)

 

 

 

「貂蟬は、西施・王昭君楊貴妃とともに、中国四大美女に数えられる。四人の中で架空の人物は、貂蟬ただ一人である。」(p48)

 

 

 

え、そうなんだ……知らなんだ……。

 

曹操、というよりも、それまでの中国史では、戦いは騎兵を切り札とする陸戦で決するものであった。長江流域の勢力が、黄河を支配した勢力を水戦で破ったことは、赤壁の戦いを始まりとする。華北を中心とした黄巾の乱、および折からの地球規模での気候変動による寒冷化は、長江流域の人口を増加させていた。長江中下流域を支配する孫呉、上流域を支配する蜀漢が、曹魏に対抗して三国鼎立を実現し得た地球環境上の理由である。」(p90)

 

 

 

うんうん、こういう話は面白いですね、歴史は人の歴史のみを学ぶにあらず、地球の歴史も重要なのです。

 

曹操は、三国一の兵法家であるとともに、「建安文学」を切り開いた文学者でもあった。」(p95)

 

 

 

これは中国史や中国文学を学んだものには当然の知識でしょうかね。

 

「毛宗崗本は、諸葛亮の智を絶賛するとともに、「借東風」「借荊州」と続く、物語の流れを予告する。赤壁の戦いは続けざまに六つの虚構が設けられる『演義』最大の山場なのである。「草船借箭」のもととなった話は、『三国志』呉主伝注引『魏略』に記されている。

 

孫権が大きな船に乗って軍状偵察に来ると、曹公は、弓と弩をめったやたらに射かけさせた。矢が船に突き刺さり、船は片方だけが重くなって、ひっくり返りそうになった。孫権はそこで、船を巡らせ、もう片方に面にも矢を受けた。刺さった矢が平均して船が安定すると、自軍へ引き揚げた。

 

これだけの話を十万本もの矢を借りる話に直接作り直すことは難しく、曲亭馬琴が述べるように、黒衣を着せた藁人形で数十万の矢を集めた『新唐書』張巡伝の記述が参考にされたと考えてよい。それにしても、主人孫権の逸話までをも利用され、諸葛亮の引き立て役にされた周瑜は浮かばれまい。」(p114)

 

 

 

あ、なんか、映画で見た場面だ。

 

「「三国志」の英雄の中で、なぜ関羽だけが突出した信仰を集めるのか。距離の遠さと関帝信仰、二つの謎を解く鍵は、三人が挙兵する際に、馬と資金を提供した豪商にある。三人は商業で結ばれていたのである。」(p135)

 

 

 

さすがに「桃園の誓い」くらいは知ってます……大体。

 

「『演義』のもととなった劉備の遺言を陳寿は次のように伝える。「若し嗣子輔く可くんば、之を輔けよ。如し其れ不才なれば、君自ら取る可し(もし嗣子[劉禅]が補佐するに値すれば輔けてほしい。もしその才能がなければ、君が自ら[君主の地位を]取るべきである)」。後半の部分を『演義』は分かりやすく改変している。

陳寿の『三国志諸葛亮伝は、この言葉に君臣の信頼関係を象徴させ、この後の諸葛亮の一生は、劉禅を託された信頼に応える忠で貫かれていた、と強調する。しかし、明の遺臣である王夫之(王船山)は、劉備の遺言を、出してはいけない「乱命」であるとし、「この遺言から、劉備諸葛亮を、関羽のように全面的に信頼していないことが分かる」と述べている。」(p178)

 

 

ああ、似たようなシーンがありますよね……『日本書紀』の「天智天皇」と「天武天皇大海人皇子)」の場面とか……『銀河英雄伝説』にもこれを元にしたようなセリフがあったようななかったような……田中芳樹さんはまあ、あれな人だし……。

 

三国志』そのものよりも、こういった研究みたいなものを面白いと思ってしまう辺り、やっぱり『三国志』好きではないんだなぁ……と思いつつも、さすがに『演義』(横山光輝版)くらいは読んでおかなければな、と今更考えています。

何しろ、話がわからない……夏侯惇くらいしか(名前を覚えているだけ)。