シュメル神話の世界―粘土板に刻まれた最古のロマン (中公新書)
- 作者: 岡田明子,小林登志子
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2008/12
- メディア: 新書
- 購入: 1人 クリック: 25回
- この商品を含むブログ (14件) を見る
できるだけバランスをとるように、いろいろな本を読んでいます。
といっても、これは3年ほど積ん読で寝かせた本ですが。
最古の文献記録は、エジプト文明のヒエログリフと、シュメル文明の粘土板です。
日本は縄文時代。
源・大和朝廷の文献すら残っていないのに、それよりはるか2000年近く前のデータが残っているというのがまず恐ろしいといいますか。
本書では神話世界の動向が解説されており、その意味では日本の古代史が好きなみなさんに非常に馴染み深いものとなっています。
それらの中で、シュメルの文化的な解説も加えられ、粘土板を読み解くのは『古事記』に触れるような感じではないのかとも思えます。
実際、日本神話の原型のような話ものぞけたりします。
ニンフルサグ女神が、夫であるエンキ神が愛した女ウットゥの体から引きずり出した種子が、8種類の草になった、というのは「オオゲツヒメ」の神話を思わせますし。
処女を手篭めにしたエンリル神が神々に断罪されて所払いになるのは、「スサノオ」の高天原追放のようです。
冥界下りはどの神話群にも見られるものです。
ルガルバンダの物語は、「オオクニヌシ」の冒険を思わせます。
これらの神話は、近くはギリシア神話、そして旧約聖書の伝承(ヘブライ神話)に取り込まれて、様々に展開していく中で、ひょっとすると日本に伝わったものもあるのかもしれません。
日本は、東漸した最果ての地、文化の漂着点ですから、あちこちから様々な神話伝説がやってきたことでしょう。
原型を残すものも、残さないものも、日本で生まれたものも、混淆として分かち難く、日本を作り上げているのだと思います。
だから私は、日本の祭りにヘブライの伝承が残されている、というトンデモ説を否定することができません。
そんなことあってもいいんじゃないかな、と思うだけです(あんまりトンデモだと、さすがに引きますけども)。
日本は、仏教がやってくるまで終末思想がなかったのではないでしょうか。
天岩戸で世界の危機は訪れましたが、以降は高天原も平穏のようですし、豊葦原中津国は争いはあるものの滅びに向かっているという思想はみられません。
日本神話が、非常に「若い」ものだからではないか、と思います。
『シュメルとウルの滅亡哀歌』について、こんな風に書かれています。
「第一歌では、シュメルの大いなる神々が集会して、シュメルの年を破壊させる計画を立てたことから、大嵐が国じゅうを大混乱に陥らせると予言される。「大嵐」というのは、北方山岳地帯のグティ人、シマシュキ人や、南東方面のエラム人らのメソポタミア侵略を指し、ウル市民の苦境とともに、最後の王イッビ・シン神が捕虜となってエラムへ連行される史実も語られる。
(中略)
第三歌では、王朝の首都ウルの人々の戦時下での苦しい生活ぶりが詠われ、都市神ナンナが「父なる大神エンリル」に気持ちを和らげてウルの繁栄を戻してくださらないかと訴えかける。その描写はまるで二〇世紀世界大戦下の諸国民、現代のアフリカ、中央アジア、パレスティナの難民の状況さながらではないか。庶民が遭遇する「戦争の惨禍」は、四〇〇〇年の時空の隔たりなどまったく関係なく、いつだって悲惨なのだということを実感させる。
第四歌では、最高神エンリルが「息子なる神スエン」の問いかけに応答する場面からはじまるが、「人類の長い歴史のなかで普遍なものなど存在しなかった」という「王権」に関するエンリル神の意見は、まさに「最古の哲学」といえよう。
第五歌では、吹き荒れた大嵐もようやく去り、荒廃したウルの再建が神々によって保証され、都市の守護神ナンナを讃える言葉で終了する。歴史的に見ても、確かに「都市ウル」は修復や改築が行われ、王朝は代替わりしてもずっとメソポタミアの重要な聖地として存続する。しかしもうそこには歴史の表舞台から去ったシュメル人の姿は見られない」(p306)
滅びが、自分たちの崇める神のはかりごとというのは、北欧神話に通じるものがありますが、一つの文明が自らの最後を冷徹に見据えた末の、「自滅の美学」のようなものを感じます。
日本神話にそれらを感じないのは、そこまで達する前に文明が進んでしまったからなのか、元来の日本的な性質が影響を及ぼしているのか。
いずれにしろ我々は、
「確かに「都市ウル」は修復や改築が行われ、王朝は代替わりしてもずっとメソポタミアの重要な聖地として存続する。しかしもうそこには歴史の表舞台から去ったシュメル人の姿は見られない」
という事実を忘れがちです。
何かを得ることは、何かを失うことです。
そして、失ったものは、元通りにはならないのです。
それが進化なのか、退化なのかのジャッジは、いつかの歴史家がしてくれることでしょう。
「しかし最大の「シュメルの遺産」は「都市文明」そのものであろう。シュメル人が滅亡して以来四〇〇〇年の歳月が流れた今日、オリンピック競技に惨禍できる国だけでも二〇〇ケ国以上あり、地球規模ではもっともっとたくさんの国家が存在している。それらの国々で「都市」が存在しない国というのはほとんどない。つまり現在の人間社会は「都市生活」を抜きには語れないのである。」(p317)