ええと……あら、十年経っていた。
結構いい感じで進んでいた京極さんの……何シリーズ?……<京極堂>にしとこう……が『邪魅の雫』で途切れてはや十年。
ノベルス版『邪魅の雫』には、次回作として『鵼の碑』が載っているのですが、どうもそれが書けなかったようです(東日本大震災と関係があるとかないとか)。
そんなことも知らず、十年の間ほったらかしにしておいた『邪魅の雫』を読了。
あらすじ……書けんわそんなもん……とにかく、昭和二十八年、江戸川、大磯、平塚あたりで毒殺されたとおぼしき死体が連続して見つかります……で、警察組織の例のやつ(管轄だのなんだの)とかもろもろがありつつ、どうやらその毒殺に用いられた毒が、かなりのやばいものらしい(旧陸軍)、ということもわかってきて、一方で引きこもりっぽい画家が登場したり、その画家の周辺で変なことが起こったり、今までもあったようななかったような話ですが榎木津の許嫁(元)のことが取りざたされたり、情報量が多すぎてまとめられません。
というか、京極さんの文章は、のめり込ませるだけの魔力があるのですが、残るイメージというのが憑き物落としをする役目の京極堂(<京極堂>シリーズであれば。<百物語>シリーズなら御行の又市)による幻惑と分解に集中してしまうんですよね、私の場合……その辺りが、底の浅い本読みである証拠でもあるのですが。
<京極堂>シリーズは、ミステリの皮を被った通俗小説なので、そのミステリ的な要素は特に問題にはなりませんし(本格ミステリにすれていれば、すぐにアレに気づくわけですが、そのことを評価の対象にしてもしょうがない、と)。
いつも通り、期待していたものとはちょっと違った(もうちょっと壊れた話になるのかと思ったのですが……いや、十分壊れていたのですが、壊れ方のベクトルがミクロだっただけで、これはこれで凄まじい)、それでも容赦なく人を描き切るという、圧倒される読書体験でしたよ、と。
ごちそうさまでした(?)。
「「俺の仕事じゃねェと云ってるのが解らねェかな、此奴は。俺はお前、悪党退治するために刑事やってるんじゃねェか」
「悪党ーーってねぇ」」(p91)
「「正しいよ。テクストをどう読み取ろうと、どんな感想を抱こうと、それを何処でどんな形で発表しようと、そりゃ読んだ者の勝手であって書き手がどうこう口を出せる類のものじゃない。書評家なんて一読者に過ぎないのだ。小説は読まれるために書かれるものだし、読んだ者の解釈は凡て正解だ。小説の場合、誤読と云うものはないからね」
「作者の意図と違っててもですか?」
「作者の意図なんて、そんなものどうやったら判ると云うんだね益田君」」(p157)
「「林檎と云う言葉は林檎を指し示してはいるが林檎そのものではないぞ。言葉は触れないし持てないし喰えない。意味は本質ではない」」(p174)
「「そうです。怪異と云うのはあってはならぬことなのです。それが怪異かどうか定めるのは、その世界の王でなくてはならない」」(p715)
いつも通り順調にうじうじしている関口君に対して、京極堂が小説に関して一席打つシーンがあるのですが、それが何かやたらと長い気がします……いつもそんなもんなんですが、いつも以上に。
流行はともかく、芸術家を生み出すのは批評家だったりするんですよねぇ……そこに何の本質があるのかはわかりませんが(たぶん、批評家というよりは翻訳家でしょうね……超訳家かな)。
引用してみたら、全部会話だったことにちょっと驚いています。