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読んだら博めたり(読博)何かに毒を吐いたり(毒吐)する独白

『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』呉座勇一

 

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

  • 作者:呉座 勇一
  • 発売日: 2016/10/25
  • メディア: 新書
 

 

結構売れた新書でしたっけね。

日本史が壊滅的な自分としては、「応仁の乱」なんて細川勝元山名宗全しか浮かんできません(暗記学習おそるべし……)。

京都の人は、前の戦争といえば「応仁の乱」のことだ、という俗説もあったり。

とにかく、基本的な知識をもう一回入れ直そう、と思って読んでみたら、予想以上にぐだぐだな大乱で驚いた感じです。

で、これをまとめるなんてことができるはずもなく(この新書ですっきりまとまってないわけです、どうやってこれ以上すっきりさせろと)。

メインで取り上げられている史料が、興福寺の僧侶の日記、ということで、同時代性が高いのはいいのですが、ううむ……。

ですので今回も、はい、引用でお茶を濁します。

 

「こうした院と摂関家興福寺の対立姿勢の中で、興福寺の軍事力は強化された。俗に言う「僧兵」、当時の言葉に直すと「大衆」の台頭である。白河院政に続く鳥羽院政期には大和源氏、つまり武士出身の僧侶である信実が興福寺において権勢をふるい、「日本一の悪僧武勇」と称された。」(p6)

 

「桜井英治氏が指摘したように、足利義教は「外聞」を極度に重視する性格だった。このため、当初は複雑な大和情勢に下手に首を突っ込んで失敗することを恐れ、大和放任論に傾いた。だが、いったん関与し始めると、自身の命令に逆らうものが許せないため、一転して強硬策を主張するようになる。義教は、”口先介入”によって状況をコントロールすべきという周囲の反対を押し切って武力介入に踏み切ろうとする。悲劇の幕は上がりつつあった。」(p37)

 

「数に勝る畠山義就は、河内で迎え撃つのではなく逆に政長方を攻めるという積極策に転じた。十月十日の明け方、越智家来らの軍勢五〇〇人が、政長が籠もる龍田城を攻撃、別働隊は平群郡の嶋氏の城を攻撃した。この時、成身院光宣は呑気にも風呂に入るために禅定院にやってきていたのだが、筒井城の筒井順永から禅定院への急報を受けて、風呂に入らず、あわてて飛び出していった。」(p69)

 

「この話を聞いた太極は「李密(隋末に反乱を起こした盗賊)は機発石という「攻城具」を作った」と中国の類似事例を紹介している。さらに時代を遡って「曹操は発石車で袁紹を破り、その威力により霹靂車と呼ばれた」と薀蓄を傾けている(「碧山日録」)。これは官渡の戦いにおいて、袁紹軍の櫓を曹操軍が発石車(霹靂車)で破壊したという『三国志』の挿話を指す。中国では昔からある兵器で、とりたてて驚くほどではない、と太極は言いたいらしい。だが逆に考えれば、当時の日本では珍しい”新兵器”と認識されたということだろう。応仁の乱が戦術面での革新を促したことは疑いない。」(p107)

 

「前著『戦争の日本中世史』でも指摘したが、元来、紫外線は短期間で決着することが多かった。鎌倉時代の都市鎌倉での合戦は一日か二日で終わっている。新田義貞鎌倉幕府を滅ぼした時も、鎌倉に侵入するまでは苦戦したが、市中に突入してからは一日で幕府群を撃破している。南北朝内乱においてしばしば行われた京都争奪戦も、長くても半月ほどで勝敗がついた。

だが応仁の乱では、両軍が陣を堀や井楼で防御したため、京都での紫外線は実質的に”攻城戦”になった。敵陣=敵城を急襲して一挙に攻略することは断念せざるを得ない。陣地の城塞化が進めば進むほど、互いに弓矢や投石器を使った遠距離戦を志向するようになった。

第一次世界大戦において、両陣営の首脳部・国民が戦争の早期終結を信じていたにもかかわらず、塹壕戦によって戦争が長期化したことはよく知られている。応仁の乱においても、防御側優位の状況が生じた結果。戦線が膠着したのである。」(p109)

 

「学侶は番条長懐への懲罰として「名字を籠める」という措置を行なっている。「名字を籠める」とは何か。植田信廣氏や酒井紀美氏の研究によれば、寺社に反抗した者の「名字」を紙片に書き付け、それをどこかに封印し、呪詛する行為を意味するという。今のところ、興福寺薬師寺東大寺など大和国の寺院でしか確認されていない。」(p123)

 

「和睦の雰囲気を生んだ最大の要因は、士気の低下である。この年の正月、西軍の「構」で一色義直の家臣たちと畠山義就の家臣たちが毬杖で遊んでいた。毬杖とは、木製の杖をふるって木製の毬を敵陣に打ち込む正月の遊びである。ところが、その勝敗をめぐって喧嘩になり、双方合わせて八〇人の死者・負傷者が出たという。長期在陣のストレス発散のためにゲームをやったのだろうが、逆効果になってしまったわけで、厭戦気分の蔓延をうかがわせる(「経覚私要鈔」)。彼らを率いる大名たちが出口戦略を考えるのは当然と言えよう。」(p183)

 

「このように書くと、いかにも富子が私腹をこやす「悪女」のように見えてしまうが、この時代、幕府や朝廷の人間に「礼銭」という名の賄賂を贈ることは一般的なことであり、富子が格別がめついわけではない。桜井英治氏が説くように、富子の利殖活動が悪化の一途をたどる幕府財政を支えていたことも、また事実なのである。」(p194)

 

今谷明氏は畠山頼成の勢力を「河内王国」「幕府威令の届かぬ独立国」と評している。言い得て妙である。「最初の戦国大名」というと、朝倉孝景北条早雲の名前が挙がるが、畠山頼成も戦国大名的な存在と言えよう。」(p207)

 

「政務委譲というより当てつけ的な政権投げ出しに義尚は反発し、再び本鳥を切り、人々の年賀の挨拶を拒否した。天下を治める立場にある足利将軍家の父子が共に引きこもるという前代未聞の事態に、尋尊は「ただ事に非ざるものなり」とあきれ返った(「大乗院寺社雑事記」)。このため、義政を補佐していた日野富子が政務を代行した。ただし、関所を乱立させたり高利貸しを営んだりと私財の蓄積に狂奔する富子の評判は以前から悪く、長く続けられる政治体制ではなかった。」(p218

 

「また公家・歌人の冷泉為広が記した「越後下向記」によれば、越後守護上杉氏が府中に構えていた館には犬追物を行う馬場や賓客を泊める禅宗寺院が付属していたという。このような構造も、京都の将軍御所を意識したものと考えられる。川の西側に守護館を建てる事例が多いのも、鴨川の西に平安京が築かれたことに学んだのだろう。

山口も周防守護の大内氏によって、京都をモデルにした地方都市として整備された。しばしば「小京都」と呼ばれるこの都市の原型は、大内氏が抱いた京都文化への憧れによって生み出されたのである。

一方、現実の京都はというと、守護や奉公衆の在国化によって住民が激減し、市街域も大幅に縮小した。戦国期の京都は、武家・公家を中心とする上京、町衆を中心とする下京、および周辺の寺社門前町という複数のブロックから成る複合都市として機能した。数々の「洛中洛外図屏風絵」は豪華絢爛たる花の都を活写しているが、これは理想の京都を描いた「絵空事」であり、実像とは大きく懸け離れていた。地方における「小京都」の林立と京都の荒廃は、表裏一体の事態として進行したのである。」(p265)

 

いくら引用したところで、「応仁の乱」の姿はさっぱり見えてきませんが、最近信長を勉強している身としては、その出現の地ならしをしたであろう「応仁の乱」にもちょっと興味が出てきた次第です(「松永久秀」とか、ちょっと出てきます)。

日本史難しい。