べにーのDoc Hack

読んだら博めたり(読博)何かに毒を吐いたり(毒吐)する独白

『中国古代史入門』渡邉義浩

 

中華思想の根源がわかる! 中国古代史入門 (歴史新書)
 

 

軽く大陸の古代史をなめておくか、と思ったらガッチガチでちょっと驚いた……ような記憶のある本です。

近年、開発が進むことで様々な史料が発見されているという中国(このあたり、宅地開発云々で遺跡が見つかっちゃうのは日本でも同じですね)、我々のよく知っている知識も塗り替えが進んでいるのだといいます。

ま、そもそも大して知らないんですけども……何しろ、歴史学の末席を汚していたというのに、『三国志演義』の話題についていけなかった人間ですから……か、か、かこうとん?

本書では、「「原中国」の成立」「「古典中国」の形成」「「古典中国」の成立」と章立てがされています。

高校の世界史の副読本にするには情報が多すぎる、と思うほど充実した内容で(副読本じゃないし)、おおまかな歴史の動きしか捉えていなかった身には、ついていけないこと……それでも、詰め込んだ知識が何とは無しに蘇ってくるので、不思議なものです。

 

「これらの間で滅国兼併が進行し、滅亡していく国が多数あった一面、「化外」(中華の外に住み、教化されていない)の外来民族による建国、およびそれ自身の「華化」(中華文化を受け入れる)という現象が同時進行したことも中華文明の形成のうえでは見逃せない。」(p18)

 

「つまり、殷王朝の神権政治は、占卜の結果の操作や改竄により、人為的に創り出された虚像であった。落合(二〇一二)の言葉を借りれば、神権政治とは「神に頼った政治」ではなく、「支配者が神への信仰を利用した政治」なのである。」(p29)

 

前漢は宣帝のころより、礼制を無視した行いが多く見られ、それらはすべて腐敗した後宮と、外戚の横暴によるものであった。劉向は、宣帝・元帝・成帝に三代に仕える中で、天子の愚劣と後宮の腐敗、外戚の勢力拡大による朝廷の弱体化の様子を目の当たりにして心を痛め、下獄を経験しながらも、天子への諫言をやめようとはしなかった。聖帝のときには、皇太后の元后王政君の兄である大将軍の王鳳の統率する外戚王氏が、勢力を拡大させた。劉向かは成帝に対して、何度も前漢の危機を警告するため上奏したが、聞き入れられず、官界の第一線から退くことになる。王鳳の甥が、前漢を滅ぼした王莽である。」(p114)

 

「劉向は、女性が母として、妻として、男性に対して絶対的な影響力を及ぼすことに脅威を覚え、国家・社会・家庭を正しく維持するためには、女性の道徳の確立が必要と考えたのであろう。そこで、女性の模範的な事例を『列女伝』の中に伝記としてまとめたのである。」(p118)

 

「さて、先に三国時代は魏・蜀・呉に分裂した時代と述べたが、ある意味ではそれは正しくない。古代より中国では、「天に二日なく、地に二王なし」(『礼記曾子問)という思想のとおり、中華に複数の国家・皇帝が同時に存在することは、本来あり得ないこととされていた。理念のうえでは、中華に君臨する国家はただ一つでなくてはならないのである。」(p123)

 

「漢代儒教五経(易・書・詩・礼・春秋)を整備してより、学者たちは聖人の言語ーー経書の権威を絶対視し、経書の解釈を通じて、そこに記された聖人の意図を厳密に捉えようと心を砕いていた。その熱情には並々ならぬものがあり、たとえば経書尚書』の冒頭にある篇名「堯典」二文字の解釈には十余万言が費やされ、その巻頭言「曰若稽古」四文字のためには三万言が費やされるほどであった。」(p138)

 

「『三国志』には、親魏○○王という称号をもらった人物が二人描かれる。一人は、「親魏大月氏王」の称号をもらったクシャーナ朝(大月氏国)のヴァースデーヴァ王(波調王)である。蜀漢諸葛亮が西域諸国を味方につけて、曹魏への北伐を行おうとする中、西域諸国の背後の大国であるクシャーナ朝朝貢させたのは、曹真の功績であった。クシャーナ朝は、落葉から一万六千三百七十里、人口十万戸の大国であり、祖父のカニシカ王のときには、大乗仏教ガンダーラ美術を生んだ、すぐれた文化をもつ国である。

もう一人が、「親魏倭王」の称号をもらった邪馬台国卑弥呼である。倭が朝貢していた遼東の公孫氏を滅ぼした司馬懿の功績を言祝いで曹魏朝貢した、と『晋書』に記されるので、朝貢させたのは司馬懿の功績と西晋では認識されていた。帯方郡から一万二千里にあるため、落葉から一万七千里、人口十五万戸の大国となる。二人の親魏王を比較すると、邪馬台国のほうが、より遠くから朝貢に来た、より大国と描かれていることがわかる。

そもそも中国と対等な国家は、理念的には存在しない。夷狄の国家は、中華の徳を慕って貢ぎ物を持って臣下として朝廷に至る。これが朝貢である。天皇家の直接の祖先が中国に朝貢したことになる大和説が、戦前には力をもたなかった理由である。より遠くの国から朝貢を受けることは、執政者の徳がより高いことを意味する。司馬懿の政敵であった曹爽の父曹真が朝貢させたクシャーナ朝よりも、邪馬台国が近くにあれば、司馬懿の徳は曹真よりも低くなる。司馬懿の孫司馬炎が建国した西晋の史家である陳寿が、『三国志』にそのような記録を残せるはずがない。実際よりも距離が遠く描かれる理由である。」(p151)

 

「稲葉一郎<一九九九>は、中国の歴史家たちは国家権力の圧力に抗してその正義と悪業を記録し、それを通して倫理規範を追求することを使命としていた、と指摘する。ゆえに倫理規範を追求しない歴史叙述は、魂の抜けた叙述と見なされたという。」(p226

 

楊堅に諭され、天皇は日本の天子であると受け入れた結果が、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」につながるのである。なお煬帝が無礼と怒ったのは、天子自称に対してではなく、「恙無きや」の挨拶が、かつて前漢の天子を圧迫した匈奴の天子たる単于の国書を踏襲していたためである。」(p250)