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読んだら博めたり(読博)何かに毒を吐いたり(毒吐)する独白

『ケルトの水脈』原聖

 

興亡の世界史 ケルトの水脈 (講談社学術文庫)

興亡の世界史 ケルトの水脈 (講談社学術文庫)

  • 作者:原 聖
  • 発売日: 2016/12/10
  • メディア: 文庫
 

 

はい、講談社学術文庫ですので、本気です(?)。

「実際のところ、ケルトってなに?」というのが本書の眼目で、私などは『FF』シリーズからケルトに目覚めたような輩ですので、未だに『ケルティック・ムーン』は名盤だなぁ、としか思っていない不勉強さ。

章立てとして、「「異教徒の地」の信仰」「巨石文化のヨーロッパ』「古代ケルト人」「ローマのガリア制服」「ブリタニア島とアルモリカ半島」「ヒベルニアと北方の民」「ノルマン王朝とアーサー王伝説」「ケルト文化の地下水脈」「ケルトの再生」、となっています。

私なぞは、どうしでも「アーサー王伝説」に注意がいってしまいますね。

ケルト、という点で考えるならごくごく一部。

キリスト教的なものが、画一的にヨーロッパを塗り込めた、と考えるのはちょっと違っていて、地域性を完全に排除した絶対神宗教は存在しないといってもよく(今のところは)、三人寄らば異端発生、さらにはどんな侵略的宗教もその地域の文化を消滅させるほどの力は持っていないのです(人間の営みである以上。これが真に「神のみわざ」であれば、また事情は異なるでしょうが……ハイチの「ヴードゥ」だって、キリスト教と現地の信仰をまぜまぜしたものですし、征服された中南米に異教的なものが全く残っていないかといえばそんなわけはないのです)。

それでも、「ケルト」がヨーロッパの人たちにとって「auld lang sine」のように感じられるのは、それだけキリスト教の影響が大きいのだ、という証拠でしかないのかもしれません。

基本的に、本書ではブルターニュ地方が中心として取り上げられています。

総論、に見せかけて、実はごく一部の地域を扱う、というのは、専門的になればなるほど必要なことで、大雑把な歴史などというものは、せいぜい高校までの教科書の中にしかないことを、歴史学の徒の末席を汚す者としては痛感します(大学で近代史、という講義をとったら1年間バイエルンの話だったとかね)。

全てを網羅することは不可能なので、自分の好むテーマに対して、アンテナをびんびんにして掘り進んでいかなければいけないのです。

もちろん、全てを網羅できる人もたまにいます(博覧強記とか、天才とか、そういう人のこと)。

 

「すなわち民衆が保存し、自らの考えとして伝承するのは、生活に身近な事項についてであり、それに基づいた思想である。」(p31)

 

「星への信仰は数多い。革命期の旅行作家のジャック・カンブリが記述していることだが、プルガヌー村(略)では、宵の明星を目にすると、人々が跛いたという。一八八〇年頃のモルビアン県(略)では、「九星の断食」という風習があり、これは夜明けから夕方九つの星を見るまで物を食べずにいることだが、クリスマス前夜にこれをすると、真夜中のミサの時、この一年以内で死ぬ人がはっきりわかった。」(p35)

 

「フランス語で妖精は「フェ」と呼ばれるが、ラテン語の妖精「ファタ」がもとになっている。ブルターニュケルト語地域での代表的呼称は「コリガン」である。一九世紀ブルターニュの民謡採集者ラヴィルマルケによれば、一世紀ローマの地理学者「ポンポニウス・メラ」の「ガリゲナエ」、古期カムリー語の詩歌の「コリッドグエン」に相当するケルト起源の名称だという。」(p46)

 

「デイアウルに橋を作らせた村長がいる。その条件は、完成後、昼のミサと夕の祈りの間にこの橋を通る人たちをその仲間にするというものだった。村長は村の司祭に話をして、この日は昼のミサと夕の祈りを続けてやってもらった。こうしてデイアウルは橋を作ったが、仲間を増やすことはかなわなかった。鬼に対する狡猾さは倫理的になんら問題ない。また、ここで語られるようなある種のおろかさを持つのもディアウルの特徴である。鬼の持つ悪徳は、人間が太刀打ちできるレベルなのである。」(p55)

 

「男根状の面昼がかつてはあったとしても、キリスト教倫理に反する者として破壊されてしまったものも多いようだ。」(p88)

 

「それを象徴するのが、前三世紀前半のケルト人のバルカン半島からギリシアへの侵入である。後代の人々はこれを「ケルト人の大遠征」と呼んでいる。」(p121)

 

「前六世紀後半のミレトスのヘカタイオスが、ケルト人の国の対岸にシチリアと同じくらい大きな島があると記したと、前一世紀のシチリアのディオドロスが書いている。これがプリタニア島についての最初の記録とされる。」(p154)

 

古代ギリシアのピュテアスやローマのストラボンなどが記す、コルビオ(サンナゼール略近郊)、また沼地帯ゲランド(略)にあったというクリスの町など、ブルターニュには水没した町の伝説がいくつかあるが、もっとも有名なのがイスの町である。」(p194)

 

「一二世紀初頭、アルモリカ、コルノウィイ、ワリアのブリトン人民衆の間で、アーサー王がいずれは戻ってくるのだとまことしやかに語られていた。この時点ですでにアーサー王伝説ケルトブリトン語派文化圏で広まっていたのである。英雄を待望する民衆的心情が流布の背後にある。」(p268)

 

「国王の識字能力についてみると、英仏の王たちは、一一世紀まではほとんどが読み書きができず、一二〜一三世紀では読めるだけ、一四〜一五世紀になってようやく書けるようになる。」(p284)

 

「一八三〇年代の教育改革の必要性から、一般向けのフランス史が書かれるようになる。代表的なのがミシュレの『フランス史』(略)であり、ここから「われらが祖先ガリア人」という表現が普及していく。フランス人の意識としては、貴族はフランク人、民衆はガリア人の系統だという意識が今でもあるが、これは一八世紀前半にブーランヴィリエ伯爵が打ち出したものである。ミシュレらの「われらが祖先ガリア人」という表現には、民衆的フランスこと真のフランスだという意識がある。」(p324)

 

「比較言語学社は祖語という単一起源を設定はするが、これを文化や人種の起源と結びつけることはしなかった。ところが一部のケルト学者はこの一線を踏み越えて、人種主義的傾向を持った。ドイツのケルト学は二〇世紀初頭、ベルリンほか五大学でケルト学の講座を持つなど、研究を先導する位置にあったが、ベルリン大学ケルト学講座教授ミュールハウゼンらがこうした立場を取り、ケルト人はゲルマン人と並んで、真性のアーリア人とみなされることになった。彼はナチス親衛隊の研究教育振興会である「祖先の遺産(アーネン・エルベ)」のメンバーにも加わった。」(p339)

 

 

 

ちょっと読み直したらすごい面白かった……。