自分の偏りを自覚しつつ、基本的なことをおさらいしようかと。
よく読まれている本でした。
第一章では「「右」と「左」とは何か」として、右翼左翼という言葉のもたらすイメージと、それらを尺度として便利に使おうとしてきた社会、しかしそれは実際に有効な尺度なのか、日本語としての右翼左翼、という二項対立でいろいろなことを説明しようとするための曖昧なものでしかないのではないか、といたことが書かれています。
右から左まで、一直線な政治的・思想的な尺度があったとして、自分は、あるいは他人は、政治家は、政党は、政府は、どこに位置しているのか、を直感的に把握するためには、わりと使えたのかもしれません(実際、私もそうやって使いますし)。
仮に、「真の右翼」「真の左翼」というものがあると仮定して、あらゆるものはその間の「どこか」に存在するかもしれませんが、決して「真の右翼」「真の左翼」ではないし、何に対する右左なのかを考えれば、事柄によって存在する場所が違うのかもしれません。
グラデーションのある、スペクトラム(連続的)なもの、という、人間にとって非常に便利なものをここで持ち出すことができます。
第二章は「フランス革命に始まる ー「右」と「左」の発生」。
西洋史をかじっていると、さすがにフランス革命については多少の知識(というか記憶)があります。
革命の結果、議会が招集されます。
その中で、一番右に座っていたのが保守の「王党派」、一番左に座っていたのが「民主派」、その間に自由主義とか立憲主義とか、まあ現実的な路線を模索する感じの人たちがいました、と。
憲法制定議会はこんな感じですが、その後の議会ではあれやこれやありまして、ジロンド党とジャコバン党が争います。
結果、ジャコバンの中でも急進派がゴリゴリと権力を握り(ロベスピエール)、革命が終わったのに独裁が始まり、国民に圧政を敷き、最終的に処刑される、という、なんといいますか、現代的にいえば「左翼の好きな内ゲバ」が起こります(テルミドールの反動)。
それで出てくるのが、大文字の「N」ことナポレオン・ボナパルトです。
各国に波及する近代革命(市民革命)は、おおよそフランス革命(とその後の出来事)をなぞっていると言われていますが、もちろんそれぞれの国や地域によって展開は異なります。
そして、このパターンを捉えて、革命〜共産主義に至る道を作ろうとした人たちが、カール(・マルクス)おじさんたちですね。
実際には、歴史の中にはおおまかなパターンは見受けられるのですが、そして近代に近づけば近づくほど顕著になるのですが、その理由は、例えば国際的緊張関係が全世界的に波及していたり、情報伝播の速度が上がっていたり、といったことでも説明できます。
よその国の真似をすれば、結果も近くなるだろう、というのは、人間なら直感的にわかりそうなものです(直感が怪しいことも承知しています)。
カールおじさんたちの凄いのは、歴史の中で得られた経験、相関関係から、人類の未来を予測したところです。
その予測が、今のところは当たっていませんが、もっと未来に当たる可能性もまだあります。
が、とりあえず共産主義革命が、全世界の労働者階級に波及して、団結・蜂起する、という予測された未来(約束された未来?)はまだ訪れていません。
第三章は「「自由」か? 「平等」か?ー十九世紀西洋史の「右」と「左」」。
ヘーゲルさんやカール(・マルクス)おじさんの思想の紹介に始まり、ヘーゲル派の分裂、マルクスの誤算(プロレタリア独裁)、そういったものを右左に分けるとすればこんな感じ、ということが書かれています。
第四章は「「ナショナル」か? 「インターナショナル」か? ー十九〜二〇世紀世界史の「右」と「左」」。
フランス革命の有名なスローガン「自由」「平等」「博愛」の「博愛」に注目し(これは「フラテルニテ」、「フラタニティ」のことで、「友愛」と訳しているものもあります)、本来の意義的には「団結」や「愛国」だと考えるとわかりやすいのではないか、というところからはじまり、近代以前のナショナリズム(そんなもんはない)、近代ネイションステイツ形成のためのナショナリズム、そしてカールおじさんたちが考えた新たな「団結」、労働者階級の国家を超えた「団結」、「インターナショナル」の登場で、右と左がまた概念を変えていくさまが書かれています。
時代は帝国主義(あんまり適切な言葉でもないなぁと思うのですよねこれも……覇権主義、のほうがいいのかも)の大国の争いに突入し、資本家と労働者の関係性は変化しますが、一方で植民地形成のためプロレタリアート的な存在は搾取される植民地民にスライドし、「第三世界」(という言葉は現代では使いませんが、歴史用語として)では革命が起こるわけです。
当然、革命の結果、共産主義国家がぼこぼこと生まれる……はずだったのですが、見渡してみるとそうではない、と。
資本主義陣営についた国も多かったのです。
が、そういった国々でも独裁が敷かれていた、というのがまたなかなか複雑で。
一時的なプロレタリアートによる独裁、というのはマルクスも容認していたのですが(そのお膝元のロシアや中国共産党はあれなんですけど)、資本主義をバックにした独裁というのは想定していなかったでしょう。
第五章は「戦前日本の「右」と「左」」。
日本で右左の概念(言葉)が定着していった時期、その捉え方、天皇制の不可思議、近代化における様々な装置、昭和を迎えての右と左、共産主義者のテロとそれに対する弾圧、極右(とされる)軍人などのクーデター、何かしら後世に残すものがあったのかなかったのか、そして敗戦。
第六章は「戦後日本の「右」と「左」」。
不思議な、「右翼」=軍国主義、「左翼」=平和主義、という構図。
GHQの思想統制(があったらしいです)、その中で恐らくはまず戦後復興を成し遂げるために犠牲にされていったものがあり、冷戦時代はまあそれでもよかったのですが、冷戦構造が崩れてアメリカが世界の警察を気取っていられなくなる、国連が機能しない、なんてことになってくると……おっと、そういう話ではないですな。
戦後の「右翼」「左翼」を、それぞれに「甘え」があったのだ、とぶった切っておられるので、かなり面白いところです。
満州国が、戦後日本のための実験場だったのでは、なんて見方もありますが(結果論からはそうなんでしょうけれど)、ある種の統制経済と終身雇用によるワーキングシェアを見れば、半分くらいは共産主義・社会主義ですから、「日本は、もっとも成功した共産主義・社会主義国家だ」という言葉も頷けないではないですね。
新左翼がただのテロ集団にしか見えなくて当然です。
実現すべき共産主義革命の「後」の姿が、日本では半分くらい実現していたのです。
そこで革命唱えても、それはただの反動でしょうに。
左翼はサヨクに、右翼はウヨクに。
そして、「政治的統制」「経済的統制」という、保守と革新の対立軸に、田中愛治という人が「文化・社会的統制」という新たな軸を設けた三次元モデルを作られたそうです。
世の中が複雑になるにつれて、次元を増やして考える、というのはどの分野でも同じなのだなぁ、と変な関心をしてしまいました。
私は、基本的には日教組のお膳立てに沿って思考して生きてきたので、そりゃもう学生運動とかやってみたいと(こっそり)思っていたのですが、その思考が30年前の両親世代のものだということには気づかなかったのです(なんと、『ぼくらの七日間戦争』を読んでいたのに)。
大学にはもちろん、そんな幻想は生きていませんでした(ありはしましたが、えらい人たちの走狗となって非合法活動、なんてことに正義があるとは思えませんでしたし、そもそもこそこそやってどうするんだと思ったりしました)。
それからはフラフラしているのでなんとも言い難いですけども……まあ、概ね右っぽい思考ですね。
だからどう、ってこともないんですが(仕事とは相反する気もしますが、そもそも矛盾も混沌もまあどっちでもいいや、的な感じなもので)。
本書は、一度読んだだけではなかなか情報が入りきらないので、繰り返し読まれるのがいいと思います(私も、ほとんど忘れていました)。
若い方も、そうでない方も、こういう風に世の中を捉えてみると、風景がちょっと変わるかもしれません。
次の日には元どおりかもしれません。
人間は、そんなもんです。
「おそらく、「自由」「平等」の思想は、人間が求めるあり方の一面のみしか充してくれないのでしょう。」(p237)
この一文だけでも、読む価値があります(あ、いえ、ここまで読んできて初めて価値がある、ということですが)。