古墳……興味はあるも、深く掘り下げられていないのです。
考古学的なアプローチが苦手なんですよね……テキスト派なもので。
食わず嫌いもいかん、ということでちょくちょく読むようにしています(結局テキスト)。
章立てを見ると、
「第一章 前方後円墳とは何か
第二章 ものとひとの往来
第三章 古墳の発達と王権
第四章 つながりとちがいと」
となっています。
どうしても日本人ですので、前方後円墳に興味がいってしまいます。
明石散人先生は、あれが「上円下方」(天は円、地は四角)の大陸的発想を誤解して取り入れた結果ではないか、とおっしゃっていたような気がしないでもないのですが(記憶があいまい)、なんとなくそれが腑に落ちたことを覚えています。
本書では、人の交流、文物の交流などから、古代日本が大陸の文献に登場するようになった時代の、大陸、半島、列島の墳形、墓制がどのようなものであったのか、について触れられています。
歴史を学ぶ上で、「始皇帝陵」はともかく、あんまり大陸や半島の墳形については知ることはないと思いますので、興味深く読むことができました。
現代でも人が多く住んでいる場所には、古墳があることは多いです。
小高い丘は古墳じゃないか、と疑ってみてもよいと思います(極論)。
古墳の頂上に神社がある、という形式も、地域性はあるのかもしれませんが、それほど珍しいものではありません(それがどのような信仰、心性によっているのか、はなかなか解読できませんが……)。
古墳の持つ機能が、我々の考えているものより実は幅広いものだったのかもしれません。
残念なことに、記紀神話にも、陵の場所は書かれていても、どんな様子だったのかは書かれていませんし……まあ書かれた当時、すでに巨大古墳を作る時代ではなかったわけですからしかたないのですけれども……もうちょっと何か書いておいてよ、とは思いました(当時の人にとっても、数百年前の話だったりしますからね……調べようもない、と言われればそれまでで)。
「「交流」の進展は「同化」ではない。むしろ各地域の特質のちがいを増大させる方向に作用したのではないか。津田左右吉の爽快な断定のことば、「日本と支那とは別々の歴史をもち別々の文化をもつてゐる別々の世界」が頭に浮かぶ。そう、「東アジア」という言葉によりかかった、安易なくくりかたは危険だ。」(p14)
「このように、弥生時代の纏向を中心とした社会が、そのままの形で古墳時代の王権に発展したのではないと考える研究者も多くなった。海外とつながりをもち、いち早く発達した九州北部の渦巻や、楯築墓に代表される吉備などの先行する渦巻が相互に影響しあい、合体して大きな渦巻が生じたとみるのである。」(p37)
「東アジアにおいていちはやく王墓を発達させたのは古代中国だ。今のところもっとも古い王墓は、殷代後期、河南省安陽市殷墟遺跡でみつかっている。地下式であることが特徴で、地中深くにむけて大型の穴を掘り、中央に木を組んでつくられた槨を儲け、その中の棺に亡骸を納める。四方向に墓道が伸びる。青銅器など多数の品物が副葬され、また王とともに人を犠牲として葬った「殉葬」が多いことも特色だ。大規模な墓はあるが、地上に墳丘を築いていない。ただし、「婦好」という人物の墓上で建物跡がみつかった例もあり、なんらかの建築物が地上にあった可能性も考えられている。数基の王墓が一地区に集中してつくられており、独立した王墓区を形成する。甲骨文からも「王」の系譜の存在が確かめられる。」(p129)
「私は朝鮮半島や倭で王墓が発達をとげた背景については、逆の作用、つまり中国王朝の墳墓秩序が弱まったことが影響しているのではないかと考える。」(p176)
「漢王朝が衰退に向かった二世紀後半に規制がゆるみ、倭では楯築墓など巨大な墳丘をもった墓が登場したのである。」(p177)
「銅鏡は文様の細かいところが見えないと、種類のちがいを識別できない。一つの墳墓に大量副葬されたことや大型鏡が作られたことが示すように、数量や大きさでもって所有者の力を示したのであろう。しかし、それは個人自体の権威を直接的に示すのには向いていないのではないか。」(p189)
「一定以上の規模の墳墓は、墳丘の表面を葺石で覆い、埴輪が立ち並ぶ。墳丘自体の装飾にも力を入れる。墳丘の直接的な外見が重視されたことを示す。後で触れるように、古墳の墳丘は「見られる」存在であった。」(p212)
「考古学では、前方後円というかたちが何に由来するのかという問題自体はほぼ解決している。この前方部は、弥生時代の円丘墓に付けられた陸橋に起源がある。それが外と切り離されて「橋」としての機能を失う。さらに楯築墓の突出部にもみられるように独特の発達をとげ、大型化して前方部となったとみるのが通説だ。こうした変化は、不思議なことに弥生時代終末期にいくつかの地域の異なる墳墓形式で同時進行したようだ。」(p216)
「墳丘のくびれ部にそうした導水施設形の埴輪が置かれていたのは、神社の手水舎と同じく、墳墓内に入る者を水によってキヨメるという象徴的意味もあったのではないだろうか。同様に周濠も、邪なるものが清浄な墳墓に侵入しないように、水のキヨメの力によって、それを払う役割を果たしていたのではないかと想定する。このようにみると、墳丘周囲も、埋葬施設と同じく「辟邪」の設備で囲まれていたと理解できるのである。墳丘を覆う葺石や埴輪列にも同様の意味を想定できる。」(p231)
「七世紀以降、倭は隋唐帝国や新羅と前代以上に密接な関係を結び、律令制や都城制、さまざまな文物の輸入など、政治・文化の各面でさらに多大な影響を受けるようになる。しかし中国式の墳墓の制度はついに導入されなかった。その独自性の淵源は前方後円墳の時代にある。」(p247)